女性たちの書いたものの方が読めるし、元気がよい、というようなことは、この金魚屋のブログでも述べられていたように記憶している。それはそうなのだが、ではいったいなぜなのか。
文学は今、おそらく非常に大きな過渡期に入っている。そういうことは文学史上、これまでにもあった。我々の意識にそれがあまり上ってこないのは、そこがまったくの空白期であるからに他ならない。
と言っても、その当該の時代には、なんだかんだと起こっていたに違いなく、それと言うのも人間はじたばたする動物だからだ。じたばたしていれば仕事しているという安心感が得られるのも確かだ。が、そこが歴史の一部として一本の線上に乗ったとき、何もかもきれいさっぱり消えてしまったのである。
こういったことは、漱石もその時代に予言し、その通りになった。残念ながら、今の時代も巨大な空白期として記録されることになるだろう。
しかしもちろん、空白期は次の時代への胎動期でもある。そして現在も、突出こそしないものの、よくも悪くも以前と変わらず、安定して生み出されている一群の作品がある。それらは多く、女性たちの手になるものだ。女性作家たちが何らかのヴィジョンがあって元気である、というより、結果としての安定感ということである。
鹿島田真希「百円の啓示」には、これもよくも悪くもその安定感を読むことができる。登場人物は少年と老人。そして作者は女性。つまり、ここに欠けているのは、成人男性たちが形作る「社会」だ。
文学の空白期がどうして生じるかと言えば、もともとは社会そのものの過渡期があって、文学の過渡期も空白期も、それを反映しているに過ぎないだろう。自分の立ち位置も理想も見失っているのが成人した男たちだということなら、彼らの作り出す文学史が空白になるのは当然だ。
けれども文学は、彼らだけの手によって紡ぎ出されてきたわけではない。変わらぬ物語を「紡ぐ」というのは、むしろ女性的な所作であり、物語を最も必要とし、目を輝かせて聞き入っていたのは子供たち、聞かせていたのはリタイヤした老人たち、という構図はそれこそ昔からのものではある。
少年は老人に百円玉を投げる。それは徹底してミニマル化された「社会」や「経済」である。しかし逆に言えば、どれほどミニマル化されようと、そこに「社会」と「経済」がある、ということだ。なければ、小説は成り立たないのだろうか。
なくても成り立つ小説の方が、おそらく現状を鮮やかに示すことになるだろう。ミニマルながら持ち込まれているそれが、鹿島田真希という作家のほどほどの安定感をもたらしている。老人が少年に与える「啓示」の予定調和とともに。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■