今月号の掲載作品から佐々木中氏の『夜を吸って夜より昏い』を取り上げたい。作者の佐々木氏は哲学者で思想家である。『夜を吸って・・・』が秀作・傑作だと言う勇気は僕にはないが、現在の小説文学の、最も前衛的な試みの一つだろうと思う。この作品に通常の意味の物語はない。書き言葉の流れ(エクリチュール)によって小説の主題が形作られている。単純化すれば、言葉が主人公なのである。
終夜(よすがら)、拠(よ)るところもない夜の寄る辺なさに因(よ)る、片寄る、偏(よ)る、ゆえに身ごと揺(よ)る、選(よ)ることも出来ず言い寄る、そして儚く消え便(たよ)る、頼る、ことも、なくなる、また夜、だ。
夜に揺すられたすべてのものたちの様に。
夜。遙かに呼ぶあの音を聴いたものは、何もかも喪(うしな)って、くらやみの最中を彷徨わねばならない。音か、声か。それすら定まりない、誰に向けられたかも知れない、何を求めてかも判らない、あの、はてのない響(とよ)みを。その喪いは解放しない。その彷徨いは何も軽くしない。その音は使命を与えない。昨夕のだらしないふか酒と食あたりの、きりきりせつないしぼり腹のままに、間なく時なく、切りもなく出立せねばならない。(中略)激しく拗(ねじ)けるしぼり腹の発作のたび、のたうち床(とこ)もなく掻き抱く何かもなくおのれの肩のみひんやり抱いて、身揺するごとゆらゆらゆらめく薄(うっす)りとした糞臭が、あま皮いちまいだけ澄んだ大気を遠くする。
(佐々木中『夜を吸って夜より昏い』冒頭)
あえて現実と対応関係を付ければ、冒頭の記述は語り手である主人公が眠りから目覚め、朝の排便をするまでを描いている。しかしもちろんそのような現実行為を描くのが小説の主題ではない。主題は『夜』を巡る記述で表現されている。『終夜、拠るところもない夜の寄る辺なさに因る・・・』は、意味的に読解すればどこにも帰属できないこと、生の指針となるような思想・観念が存在しないことを示している。しかし『その喪いは解放しない。その彷徨いは何も軽くしない。その音は使命を与えない』とあるように、『夜』からの脱出の方途はない。ただひたすら『夜』の中に閉じ込められている。それが『因る』『片寄る』『偏る』『選る』といった、『よる』の韻を踏む粘着質の文体で表現されている。
引用からもわかるように、『夜を吸って・・・』は短歌調と呼びたくなるような古語と踏韻を多用している。しかし物語の舞台は現代である。主人公はウェッブとブックデザインを仕事にしており、作品中に主人公が手掛けるウェッブのHTMLコードやクライアントである小説家とのチャットが挿入されている。このコードについて主人公は、彼以外ではほぼ唯一の登場人物である弟の賢三と、『これはクライアントのサイトで、指定した範囲を拡大するためのコード、(中略)凄いねぇ。凄くない。誰でも書けるよ。(中略)でも、何か詩みたいだね。詩? ほら、マラルメのとか、あんじゃん』という会話を交わしている。
マラルメの『骰子一擲』などのタイポグラフィ詩が想起されているわけだが、もちろん表層的(視覚的)な類似である。短歌調の古語は、文語体に従来のような歴史的役割がないことを示すために使用されている。古語や韻が多用されているからといって古典文学を踏まえているわけではないのである。それは小説に言語的な差異をもたらす言葉に過ぎない。HTMLコードと詩のタイポグラフィも同様である。極端を言えばマラルメのタイポグラフィ詩はHTMLコードとなんら変わらない。それは単に視覚的な言語の形であり(HTMLも言語である)、従来マラルメに付加されてきた様々な文学的な神話的意味性が、現代では無効になっていることの表象である。
繰り返すが、肌に沁みていない訳ではない。凄いことになった、という感想がふたり口々に漏れないでもない。だが、これは狂躁、すなわち詮ずるところ軽躁、になるかどうかは、まだ知れぬ。と思っていると、白髪ふりみだした老人が目前、解放区、解放区だあ! と怒鳴った。解放区なんて吝嗇(けち)なものを作るためにあ、集まったんじゃねぇだろ。「解放区なんて吝嗇なものを作るために、集まったんじゃねぇだろ」。こちらの内心をそのまま一字一句違わず声にした賢三は、物憂く、しかし火照って、太鼓打ち鳴らし空きもないのに駆け出す人びとの狭間で、芯から麻痺したような翳る横顔を見せている。自分たちだけが醒めていると思うはもとより愚劣、だがこうした騒擾にあくがれ、一時のはかない解放に悦に入るのも愚劣。――ならば、どうすればいい。答えは明らかである、ように思える。しかし、それをどう通す。
(同)
主人公はある日家に転がり込んできた弟の賢三と、毎週末国会議事堂前で行われている原発反対集会に出かける。『こちらの内心をそのまま一字一句違わず声にした賢三は・・・』とあるように、賢三は主人公の分身である。また『ならば、どうすればいい。答えは明らかである、ように思える。しかし、それをどう通す』とあるように、この箇所が作品のクライマックスであると言えば言える。しかしこの作品は、一般的な小説のように起承転結のある物語にはならない。主題はどうやっても抜け出せない『夜』を描くことにある。
目の前で、燃えている。灼けていく。(中略)それは弟の灼ける匂いだ。(中略)
ひとが集まってくる。
どうすればいい。何も判らない、何も見えない、この夜のなかで。少なくとも、行く末を見届けなくてはならない。
此処から。
われらが。
(同、最終部)
主人公は国会議事堂前の集会(デモ)に出かけたあと、クライアントの小説家と弟の賢三の三人でいわゆる抵抗(プロテスタント)運動の話をする。そこで話題に上がったのが抗議のための焼身自殺である。この会話があってしばらくして、弟の賢三が国会議事堂前で焼身自殺する。もちろん現実の輪郭は薄い。また焼身自殺に政治的な意味はない。『どうすればいい。何も判らない、何も見えない』とあるように、夜からの出口が見つからないので賢三は炎となってその身を滅ぼそうとしたのだと言える。その光をたよりに主人公は、『少なくとも、行く末を見届けなくてはならない』と考える。
既述のように賢三は主人公の分身である。焼身自殺するのもそれを見ているのも主人公だということだ。この身を焼く炎で夜の闇を吹き払うことはできないが、一筋の光ではあるということになるだろう。ただそれが希望の光なのか、一瞬の閃光で、また絶望の闇に沈んでゆくだけのあだ花なのかは、作家にもわかっていないようである。もう少しはっきり言えば原発反対集会を持ち出したからには作家の〝思想〟が問われる。賛成か反対かは問題ではなく、紋切り型の思想的信条では捉えられない現実を描くために小説は書かれるものである。しかし全てが中途半端だ。決定的な何かを〝書かない〟ために無駄な言語的修辞が積み重ねられている。
『夜を吸って・・・』には思想・観念的な帰結もなければ、通常の意味での胸躍るような物語展開もない。最初から終わりまで閉塞感が表現されている。だからこの作品を評価するとすれば、その閉塞感、400字詰め原稿用紙約170枚という長さを評価しなければならないだろう。それを可能にしたのが短歌調の粘着質の文体である。もう少し正確に言えば、『夜を吸って・・・』の文体は、叙述によって結論を先延ばしにして永遠に循環し続ける、長歌の特徴を援用して息苦しい閉塞感を表現している。つまり記述言語(エクリチュール)が作品の主役なのである。
これまでこの時評で、現代の前衛小説が自由詩に近接しているということを何度か指摘した。『夜を吸って・・・』も同様である。ただ言うまでもなくそれは〝詩的文体〟であって〝詩〟ではない。詩は原理的には性急な言語表現である。世界の本質を直截に表現したいと願う作家が詩という表現形態を選ぶ。しかし世界の本質などそう簡単に言語化できるものではない。またある程度表現し得たとしても、そこでは日常の言語が意味的にもイメージ的にも歪むのが常である。宗教的直観に彩られた言葉のようになってしまうのである。簡単に言えば詩は、日常言語では表現し得ない何事かをそれでも日常言語で表現しようとする、不可能に憑かれた言語的闘いであると言うことができる。
現代前衛小説は、日常言語を歪ませるのを常とする自由詩の言語的な特徴を、主題の消滅、つまり書くことが見当たらないことを表現するために援用している。詩のように性急に主題を表現するために言語的な歪みを許容するのではなく、何も書くことがないことを露わにするために日常的な用法をあえて逸脱した言葉を使って空虚を表現しているのである。それを理論的に補強するのはデリダあたりの差延理論だろう。表現主題が存在しない以上、物語も存在しない。すべてはリゾーム状の言語だ。小説的な物語展開は任意の出来事の連鎖であり、かつそれは現実との対応関係を持たない言語的事件であって良い。長い長い小説の叙述であろうと、それは本質的に耐え難い空虚を埋めるための、その場限りの作家の呟き(ツイート)であると言える。
川上 穂村さんが、角川短歌賞で歌壇に出られたころは、口語短歌はまだ少なかったでしょう?(後略)
穂村 (前略)口語短歌が世の中に受け入れられる趨勢が固まって、状況が整ったのは、八〇年代が初めてだったと思うんですよ。(中略)短歌だけはずっと何とか「なりけり」、何とか「けるかも」と言い続けて、どんどん世間からずれていった。それが突然、八〇年代に外の世界に一気に追いついた。(中略)ただ一旦そうなってみると、なぜそれまで時代劇しかやってこなかったのか、よくわからなくなってしまったんですね。
(穂村弘、川上弘美、角田光代鼎談『短歌のことば、小説のことば』)
今月号には、穂村弘、川上弘美、角田光代氏による鼎談『短歌のことば、小説のことば』が掲載されている。小説文学の読者はご存知ないと思うが、短歌の世界では口語短歌が花盛りである。詩の世界は衆知のように作家と批評家と読者がほぼ重なっている。一番創作人口(読者人口)が多いのは俳句で、短歌がそれに次ぎ、最も作家=読者人口が少ないのが自由詩である。これも大雑把な区分けだが、俳句人口には会社などを停年退職されたご高齢の方が多い。それに対して若年層の作家=読者が増え続けているのが短歌の世界である。それを牽引しているのが誰にでも親しみやすく詠みやすい口語短歌である。俵万智氏と穂村弘氏は口語短歌の旗手である。また短歌ではネットで作品を発表される方が非常に多い。俳句より14文字多い短歌の形を取れば、作家の折々の心情や状況を表現(ツイート)しやすいのである。
カブトムシのゼリーを食べた辻一朗くんがにこにこ近づいてくる
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
海光よ 何かの継ぎ目に来るたびに規則正しく跳ねる僕らは
天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく
(川上弘美選による穂村弘短歌四首)
校庭の血ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け
呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる
卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け
(角田光代選による穂村弘短歌四首)
作家は自己の表現ジャンルに専心すればするほど、そのジャンルを世界そのものだと認識するようになる。自己の営為に疑問を抱かなくなる。穂村氏が短歌の伝統に無関心であるわけではないが、口語短歌に馴染みのない読者が鼎談で引用された氏の作品を読めば、多くの人がこれはもはや短歌ではないと言うだろう。自由詩が作家による〝自由詩である〟という〝宣言〟(デクレアメント)がなければ作品として成立しないように、多くの口語短歌作品は、作家による〝短歌であるという宣言〟を必要としている。五七五七七定型は作品を成立させるための必須要件ではない。自由詩となんら変わらない不定形の言語が、作家による〝短歌であるという宣言〟によって短歌文学の主流となりつつある。
現象的に言えば、自由詩と短歌のジャンルの垣根は既に存在しない。それは純文学的前衛小説も同様である。小説はそのジャンル的特権と見なされてきた物語を手放し、詩と同質の表現に向かおうとしている。ジャンル固有の特性や共通基盤(パラダイム)を失い、作家個々に異なる抽象的言語総体に向い始めている。そのような作品の評価は難しい。実際、口語短歌を含む詩や純文学的前衛小説を素直に読んで、その素晴らしさを感受できる読者は稀だろう。主題(思想・観念)の不在を表現するための抽象的言語総体を指向している現代文学では、作家の絶望の深さ以外に作品評価基準は存在しないのである。生半可な表現は、作家のその場限りの呟き(ツイート)か、意味のない記号の戯れになってしまう。
この状況が近い将来の詩や小説ジャンルの主流になるのか、一時の現象で終わるのかは誰にもわからない。しかし自らの意志でこのような流動的状況を作り出しながら、作家も雑誌も、相変わらずどこかで既存の〝文学幻想〟に囚われ、作家であり文芸誌と呼ばれ続けるための社会的既得権益を守ろうとしているように思われる。それは根本的な矛盾である。現代文学の潮流(トレンド)は、既存の文学システムをも崩壊させる方向に向かっている。ならば一度徹底して壊してみるべきだろう。中途半端な前衛は必ず失敗する。あらゆる意味で既存の文学的制度を排除して、すべてが流動化していると肉体的確信を持てる作家だけが、この状況を抜け出せるのかもしれない。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■