南京金魚香合(清朝初期)
今回は「きんぎょ。」です。文学金魚で「言葉と骨董」の連載をさせてもらっているからではないと思うのだが、これまで金魚の美術品について二回書いている。「江戸ガラスの金魚玉」と「アロン・サイス陶展「文学金魚」」である。わたくし、どうも金魚が好きみたいです。知らんけど。
日本で金魚と言えば縁日の金魚すくいのイメージである。赤い小魚という感じの金魚をすくってビニール袋に入れてもらって持ち帰るのだが、数日で死んでしまうことが多い。縁日の金魚は大勢の人につつかれ、追いかけまわされて弱っているのが最大の原因だ。そのうえ腹が減っている。縁日に出荷する前には水が濁らないようエサを減らして糞の量を減らすからだ。
比較的元気そうな金魚を持ち帰っても飼い方がわからなくて死なせてしまうことが多い。しかしちゃんと水槽に入れエサを適量与えてやるとけっこう長生きする。カウントしていなかったが子どもの頃縁日ですくった金魚は古い火鉢の中で五年は生きていた。七、八センチだったのが十五センチくらいまで大きくなるヤツもいます。ちなみにヒヨコも釣ったことがある。すくすく育ってニワトリになりました。毎朝コケコッコーと庭の鳥籠の中で絶叫するので困った。オスだったけど。
例によって金魚は中国から日本にもたらされた。金魚文は本場中国では吉祥、目出度模様である。チベット仏教の八宝(八吉祥)に蓮華などと並んで金魚が含まれているのはよく知られている。中国では正月に新しい年を祝い、魔除けの意味も込めて壁に年画と呼ばれる絵を飾る行事があるが金魚の画も人気だった。中国語で金魚はチンユイで金餘と同じ発音なので縁起物にうってつけなのである。煌びやかでピチピチしていて元気、多産でお金儲けにもご利益がありそうというのが人気の理由である。
金魚の出現は古い。一説によると三国時代の魏から西晋にかけての政治家で文人の張華(二三二~三〇〇年)著の『博物誌』が文献上の金魚初出だという。今から一七〇〇年前には金魚は存在していたことになる。これについては異論があるが、北宋時代に金魚池があったという記録もあり千年以上の歴史があるのは間違いない。
ザックリ言うと金魚は中国南部の揚子江流域に棲息していたフナが突然変異して、鱗が赤いひぶな(緋鮒)が生まれたのがその始まりである。このひぶなを品種改良して出来たのが今わたしたちが見ている金魚である。金魚の先祖はフナということになりますな。これはDNA調査でも裏付けられている。
ただしフナをいくら飼っても、どう工夫しても金魚にはならない。突然変異しないのである。これは数々の実験で証明済みである。フナ→ひぶな→金魚と変異して〝金魚〟という種になって今に至るというのが客観的事実のようだ。基本的に自然界では生きていけない弱い魚だが驚異的に長い歴史を持ち愛され続けて来た家魚である。
金魚の種類は日本産で品種認定されているものが三十一種類、海外を含めると一〇〇種類以上だと言われる。この金魚の品種も長い時間をかけて掛け合わされた結果だ。珍奇な色形の金魚が生まれても生殖能力があるとは限らないのである。ただ金魚の品種改良には謎が多い。
金魚は趣味の魚であり近代に入るまで学術研究が為されて来なかった。ドラム缶の中に金魚を入れ、蓋をして真っ暗にしてから側面を棒でガンガン叩くと黒いでめきんになるという冗談があった。ウソだろうが、かといってどうやってでめきんのような変わった形の金魚が生み出されたのか、よくわからないのである。
南京金魚香合
清朝初期 十七世紀前半 縦6×横4.2×高5センチ(いずれも最大値)
同 上部裏
同 下部表裏
今回紹介する一つ目の骨董は中国製の金魚型香合である。前傾姿勢で水に飛び込もうとしている水泳選手のようだ。ちょっとおとぼけな感じで可愛らしい。古そうな箱に入っていて貼札に「南京金魚香合」とある。骨董の世界で「南京焼」は清朝初期の焼物になる。時代は合ってますな。
明から清の動乱期に焼物の本場である景徳鎮は最大の顧客を失ってしまった。宮廷が最大の顧客だったのである。そのため景徳鎮(だけではないが)は海外貿易に活路を求めた。日本に大量に伝わっている古染付と呼ばれる焼物などである。ほとんどが日本のお茶人からの注文品だ。磁器とは思えないぶ厚い磁体、皿や向付の口辺の釉薬が欠けている(剥がれている)のが最大の特徴である。これを虫食いと呼んでお茶人たちは珍重した。中国では色、形、絵付け、焼き上がりともに完璧な宮廷用(皇帝用)焼物が最高級品だが、磁器より陶器が好きで完璧さを嫌う日本のお茶人らしい好みである。最初は景徳鎮の陶製技術が低下して陶体(粘土)と釉薬の組み合わせが悪くたまたま釉薬が剥げてしまったのだろう。それを日本のお茶人たちが喜んであえて釉剥げのある焼き物を作らせたのである。
金魚型香合は釉剥げなどがない。端正な形で釉薬もしっかりかかっている。そこからも制作年代は明末ではなく窯が安定した清朝初期だということがわかる。日本では江戸初期だ。ちなみに江戸後期に大量に輸入された中国磁器を「新渡染付」と呼ぶ。この「新渡染付」が伝来してから明末の染付が「古染付」と呼ばれるようになった。骨董用語Tipsですな。
この金魚型香合もお茶道具の一つ。お茶席で焚く香木を入れておくための容器である。茶席を彩る飾物でもある。ただ最初見た時金魚っぽいなとは思ったが確証を持てなかったので骨董屋に質問してみた。
「青色なのはいいとして、この香合が金魚だっていう証拠は?」
「あー尾っぽと背びれです。特に背びれですぅ」
「もそっと詳しく」
「背びれがない魚は金魚だけなんです。これはらんちうです」
「なーるほど」
言われてみればその通りで、らんちう(卵虫、蘭鋳、金鋳とも書く)には背びれがない。骨董屋は香合を金魚コレクターから仕入れたそうで、もう一点、同じコレクターから買った古伊万里の小皿があった。売り物なので写真は撮らなかったが直径七センチほどで見込みに染付で金魚が描かれている。これが金魚型香合の倍くらい高かった。モノとしては金魚型香合の方が魅力的に見えたので不審だった。そこでまた質問。
「なんでこの古伊万里の方が高いの? 金魚文の古伊万里は見たことあるよ」
「あーそれは明治に入ってからの雑な伊万里でしょ。確実に江戸時代だという金魚文の古伊万里は珍しいんです」
「へー」
「それによーく見てください、この古伊万里の画もらんちうです。らんちうが描かれた江戸期の古伊万里ってとても珍しいんです」
「へー、なーる(ほど)」
骨董屋はその後も金魚について話し続けた。もう三十年以上の付き合いになるが、かくまで金魚好きだとは知らなかった。新しい発見でした。それはともかく骨董屋の話しでずいぶん前に金魚文の古伊万里皿を買って普段使いにしていると思った。
古伊万里らんちゅう文七寸皿
江戸時代 天保時代頃 十九世紀前半 直径21.6×高3.3センチ
同 裏
家に帰って早速食器棚から金魚皿を取り出してみると、果たしてらんちゅう文である。背びれない。なんだか変な金魚だなぁと思っていたんですけどね。骨董屋に見せると「とても珍しいです。初めて見ました」と言うので鮭の切り身やコロッケ皿にするのはやめにして適当な箱を見繕ってしまい込むことにした。珍しいと言っても大幅に値段が上がるわけではないがこれは仕方がない。いつか手放して誰かの手に渡るのだからそれまで大事に保存しなくちゃなのである。こういうモノをすごく欲しがる人もいますからね。
ただどうも僕が知っているらんちゅうとは形が違う。ひつこく骨董屋に質問すると「これは大坂らんちうです。江戸時代のらんちうは今みたいに頭がボコッと飛び出していないんです」という明快な答えが返ってきた。骨董屋さんもいろいろだが、質問攻めにしても誠実に答えてくれる骨董屋はいい骨董屋である。
調べてみるとらんちうは江戸中期には日本に存在していて、特に大坂で人気だったので今でも大坂らんちうと呼ばれているようだ。金魚業界で「獅子頭」と呼ぶ頭に大きな瘤があるらんちうが登場するのは幕末。この瘤はどうやら掛け合わせで背びれを大きくして頭に持って来たもののようである。
【参考図版】染付金魚文舟形皿
鍋島藩窯 江戸時代中期(1790~1820年代) 磁製 縦12.4×横21.8cm×高4.6cm 26枚 公益財団法人鍋島報效会藏
文化庁の文化遺産オンラインで検索すると鍋島焼の染付金魚文舟形皿がヒットした。鍋島焼は将軍家献上窯なので製品のレベルが高く、古九谷、柿右衛門と並んで古伊万里では最も値段が高い。解説に「八代鍋島治茂時代の記録『泰国院様御年譜地取 七』によると、安永三年(一七七四年)将軍家より注文のお好みの陶器十二通りのひとつ「金魚絵舟形皿」に相当する意匠であることが分かる」とある。盛期鍋島の精緻さには劣るが製作年代がわかる基準作である。この舟形皿もらんちうのようだ。
陶磁美術館に行くと古伊万里の文様は無限に思われる。しかし実際はその九〇パーセントが蛸唐草や花唐草、氷裂文、草花、山水などの抽象文である。実用食器として作られているのだから当然だ。生き物の画の種類は限られている。鳥なら鶴、孔雀、鶉、千鳥、鷺、鳳凰などであり、哺乳類だと虎、麒麟、鹿、獅子、象、兎、栗鼠、龍(想像上の生き物ですが)などになる。人物は羅漢、仙人、布袋、唐子、阿蘭陀人、女性(美人)、相撲、魚は鯉、鮎、鯛くらいか。もちろん古伊万里の絵付けはなんでもアリで変わった文様もあるが、日本最大の古伊万里コレクション「柴田夫妻コレクション」図録などを調べたが金魚文は見つからなかった。骨董は徹底したデータベース世界だが教えてもらわないとわからないことも多い。
日本に金魚が伝来したのは室町時代中期の文亀二年(一五〇二年)説が有力である。江戸時代にロングセラーになった安達喜之著の日本初の金魚飼育手引き書『金魚養玩草』に「ある老人の言うに金魚は人王百三代後柏原院の文亀二年正月廿日はじめて泉州左海の津に到り」とあるのが典拠である。あやふやな伝聞で異論はあるが、このくらいの時代に金魚が輸入されていないとその後の金魚関連文書との辻褄が合わない。種子島に鉄砲が伝来しフランシスコ・ザビエルが来日した南蛮貿易最盛期に珍奇な金魚も大量輸入されたのだろう。実際は本格的移入が文亀二年頃でそれ以前から細々と金魚が輸入されていたようだ。
室町末の応仁の乱から戦国時代は金魚どころではなかったが、江戸最初の太平の世である元禄時代になると一気に金魚関連の資料が増える。将軍徳川綱吉は生類憐れみの令の悪政で知られるが保護すべき生き物に金魚も含めた。綱吉が江戸市中の金魚七千匹を召し上げて藤沢の遊行上人の池に放ったという記述が朝日文左衛門重章の『鸚鵡籠中記』にある。ただそれは一過性の政策で江戸後期になると金魚は朝顔飼育と並んで町民の一大娯楽になった。
【参考図版】喜多川歌麿筆『金魚あそび』
江戸時代 十八世紀 大判 錦絵 縦37.9×25.2cm
有名な喜多川歌麿筆の浮世絵『金魚あそび』である。町人の娘二人が金魚と戯れ見入っている。立っている娘は手に金魚玉を持っている。江戸後期にはガラス製の金魚玉が普及していたことがわかる。歌麿の『金魚あそび』はなんだかのどかで雅な雰囲気だ。そういう印象は正確なもので江戸後期の金魚はまだまだ高価だった。
【参考図版】歌川国芳筆『金魚づくし・さらいとんび』
江戸時代 十九世紀 中判 錦絵 縦25.7×横18.5cm
これもよく知られた歌川国芳筆『金魚づくし・さらいとんび』である。国芳の幕末になると金魚は本当に身近な愛玩魚になっていた。「さらいとんび」は「掠い鳶」のことで上方に鳶が油揚を掠って(盗んで)飛んで行く姿が描かれている。それを金魚たちが「待て待て」という感じで身体を伸ばして見ている。金魚が擬人化されているわけだ。マンガを先取りしたような滑稽画である。骨董は各時代の意識と無意識がモノの形になって残ったものだから、モノの変遷を見て行くと時代変化が手に取るようにわかる。
歌舞伎と相撲が江戸の庶民最大の楽しみだったが、菊や朝顔栽培、金魚の飼育もささやかな楽しみだった。菊は湯島天満宮(湯島天神)」の文京菊まつりなどにその名残がある。朝顔は入谷朝顔まつり、金魚は縁日の金魚すくいに長くその影響が残った。
『金魚図』
作者不詳 大正~昭和初期(?) 絹本彩色 縦46×横55cm
多分もう金魚について書かないと思うので、ついでにもう一点、僕が持っている金魚関連の骨董を紹介します。絹本の日本画で「敬(?)康」の署名と雅印があるが作者不詳。制作年代も絹本の褪せ具合から大正から昭和初期くらいかなと推測できる程度である。琳派のたらし込み技法を使っているので日本の画家でいいと思う。もうずいぶん前に安いけど気に入った画を買い集めていた時期に買った。それなりに大きく立派な日本画である。
昭和の中頃まで多くの日本の家に床の間があった。床の間があれば何か軸を掛けなければならないわけで、そのために雪舟を始めとする有名画家の贋作が無数に作られた。出来がよければ真作と偽って取引されたりするわけだが、たいていは倣製、写し物でさほど悪意はなかった。
この『金魚図』は有名画の写しではないが夏用の掛け軸だろう。俳句で金魚の季語は夏。江戸でも金魚売りの声が夏の風物詩だった。今も昔も日本の夏は蒸し暑い。現代までクーラーは普及しなかったから人々はこの『金魚図』のような画を掛けて涼を求めた。
藻の花や金魚にかかるいよすだれ
其角
びいどろの魚おとろきぬけさの秋
蕪村
遺影には遺影の月日金魚玉
秦夕美
元禄蕉門時代から金魚の句は多い。秦夕美さんの句は名句だが、金魚玉が遠い昔の遺物になってから生まれた俳句である。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2025 / 01 / 19 14.5枚)
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■