No.145『幕末土佐の天才絵師 絵金』展
於=サントリー美術館
会期=2025/09/10~11/03
観覧料=1,800円(一般)
カタログ=2,900円

南国土佐(高知県)の沿岸部では今も夏祭りに芝居絵屏風を飾る独特な祭礼が行われている。歌舞伎の名場面などを描いた浮世絵屏風である。神社の参道や境内に巨大な台(地域によって台提灯、絵馬台、花台など呼び名が異なる)を作り、そこに何点もの屏風を嵌め込んで飾る。台といっても武骨な木枠ではなく繊細かつ豪華な神棚のような作りだ。参拝者が下を潜ることができる大きな門のような台もある。それ以外にも芝居絵屏風を所蔵している氏子などが家の前に屏風を飾ったりする。

高知市朝倉神社夏祭りの絵馬台
この芝居絵屏風を初めて描いたのが絵師の金蔵である。文化九年(一八一二年)生まれ、明治九年(一八七六年)没、享年六十五歲の幕末の絵師である。高知城下の新市町(現・はりまや町)に髪結いの子として生まれたが幼い頃から画才があった。十八歲の時に藩主の出府に駕籠舁きとして随行し江戸で狩野派系の土佐藩御用絵師・前村洞和の元で三年間狩野派の技法を学んだ。帰郷して土佐藩家老・桐間家の御用絵師となり藩医・林家の株を買って林姓を名乗った。が、なんらかの不祥事を起こして三十三歲の時に御用絵師と林姓を剥奪され城下追放となった。多くの作品が市街地から離れた沿岸部に伝わっているのはそのせいだろう。ただ町絵師としての人気は高く門弟は数百人を数えたのだという。今回はこの金蔵作品中心の展覧会である。
「絵金」は元々は「金蔵の絵」という意味だった。それがいつしか省略され絵金になった。やがて芝居絵屏風そのものを絵金と呼ぶようになり、金蔵の弟子で芝居絵を描いた弟子たちも絵金さんと呼ばれるようになった。それもそのはずで絵金の絵は膨大な数が残っている。現在までに芝居絵二〇〇点超、絵馬約七〇点、白描や絵馬提灯、軸など二〇〇〇点ほどが確認されている。土佐の芝居絵を代表する絵師である。太平洋戦争中に高知でも大空襲があったが沿岸部は無事だったことが幸いしたようだ。絵金作品はそれなりに有名だがいまだに高知の町内や民家で保存され受け継がれているのも大きな特徴である。

絵金筆『浮世柄比翼稲妻』
二曲一隻 紙本着色 縦一六九・二×横一八三・七センチ 高知県香南市赤岡町一区蔵
『浮世柄比翼稲妻』は絵金の代表作である。四世・鶴屋南北作の歌舞伎が有名だがこの劇、筋があるようでない。物語の中では外伝と言っていい「鈴ヶ森の場」が人気で独立して演じられることが多い。派手な立ち回りで見応えがあるからである。歌舞伎では「見取狂言」と呼ばれる出し物で名場面だけを演じるのである。
お尋ね者で賞金首の美青年の浪人・白井権八が処刑場として有名だった鈴ヶ森で悪党の雲助たちに命を狙われ彼らをバッタバッタと切り捨てる。そこに江戸時代を通じて最も人気のあった侠客・幡随院長兵衛が来合わせる場面が描かれている。
右側に描かれているのが幡随院長兵衛で左側が白井権八。二人の足元に権八が切った雲助たちの首や手や死体が転がっている。長兵衛や権八の顔は浮世絵と同様に役者が見得を切る際の表情で描かれているが、歌舞伎の舞台ではもちろんこんなに血が飛び散らない。小道具で切られた首や手が転がることもない。そのため一昔前まで絵金の芝居絵屏風は「血みどろ絵」と呼ばれていた。

絵金筆『伊達競阿国劇場 累』
二曲一隻 紙本着色 縦一六三・八×横一八一・六センチ 高知県赤岡市本町二区蔵
『伊達競阿国劇場 累』は仙台の伊達騒動(お家騒動)に基づいた狂言の一つ。これも忠臣譚と生き霊(怨念)話がごた混ぜになった歌舞伎らしい出し物である。
与右衛門は主君の放蕩を止めるために遊女・高尾を殺して追われる身となるが、逃亡先の家はたまたま高尾の実家で高尾妹の累と夫婦になる。しかし累は高尾の怨念で顔が醜くなってしまう。それでも与右衛門は累に決して鏡を見ないと約束させ暮らしているが、あれやこれやあってそこに主君の許婚の姫が逃げて来る。悪党の金五郎が姫を売り飛ばそうとしているのを知った与右衛門は金策に奔走し、累は夫の窮状を知って遊女に身売りしようとして鏡を見て絶望する。与五郎が姫を救おうと、方便で金五郎に姫は自分の妻だからと言ったのを洩れ聞いた累は嫉妬に狂って姫に襲いかかり与右衛門に鎌で殺されてしまう。しかし死んだ累からは悪女高尾の怨霊が去り成仏して元の美しい顔に戻っていた・・・といった、まあムチャクチャなストーリーである。
絵金の屏風は物語一番の盛り上がりの立ち回りを描いている。幽鬼のような累が嫉妬に狂って美しい姫に襲いかかりそれを与右衛門が必死に止めている。与右衛門の足元には累を殺すことになる鎌がある。左上の頬被りした男は悪党の金五郎。真ん中上方に高尾と累の兄で、二人の霊を解脱(成仏)させることになる笠をかぶった三郎兵衛が小さく描かれている。累の髪にまとわりつく火の玉や姫の背後の卒塔婆がおどろおどろしい。顔も着物の描き方も浮世絵だが主要登場人物全員を登場させ激しい動きで緊迫感を演出しているのも絵金の特徴である。
いまさらだが絵金の芝居絵屏風は大きい、縦一五〇から一六〇センチで横幅は一八〇センチほど。実物を見るとその大きさに圧倒される。屏風はすべて二曲一隻。余計な説明だが二画面でワンセットの屏風なら二曲一隻、四画面ワンセットなら四曲一隻である。すべて一点モノの肉筆画で摺物の浮世絵はない。これは土佐の鄙には摺師などの職人がおらず浮世絵を売る版元(店)もなかったのだから当然ですね。
土佐の沿岸部に絵金の芝居絵屏風が大量に伝わっている理由は当地の芝居熱にある。江戸の人々の三代娯楽は芝居、相撲、女性(美人)だった。芝居は歌舞伎で野郎歌舞伎だから芸能人アイドルで美男子ということ。相撲は人間離れした憧れのスポーツ選手。美を代表するのが浮世絵の美人画である。今で言う美人グラビアだ。幕末になると広重や北斎の風景画がブームになるがそれでも美人画が浮世絵の中心だった。それ以上に大量の枕絵(ポルノグラフィー)も作られていましたが。
江戸、京都、名古屋(尾張)、大坂などの大都市ではいわゆるプロによる歌舞伎や相撲の興行が盛んに行われていた。土佐を含む地方で本格的な相撲や歌舞伎が開催されることはなかったが人々は素人相撲や地芝居(狂言)を催し楽しんでいた。旅芝居の一座や旅浄瑠璃などが巡業してくることもあった。しかし土佐で盛んに地芝居が開催されていたわけではない。
図録解説で藤村忠範さんが「土佐における江戸末から明治初期の地芝居の状況について―絵金の芝居絵屏風の流行が成立した時代背景を探る―」を書いておられる。それによると土佐藩は剛健質素が藩是で謡曲、能楽、相撲、踊りは許可したが芝居は原則禁止だった。江戸後期の文化・文政時代以降は田舎での地芝居は許可されたがその数は決して多くない。直前になって藩から差し止めになることもしばしばだった。
江戸時代を通じて歌舞伎は人気だったが芝居小屋は悪場所と呼ばれていた。人気者で裕福な者も多かったが役者は河原者で封建制度の下位に属していた。芝居狂いになって身を持ち崩す客もいた。それだけでなく芝居小屋は消極的な体制批判の場だった。
『勧進帳』や『忠臣蔵』に代表されるように歌舞伎の出し物は常に弱き者の味方で権力者の恣意や横暴を暗に批判している。また江戸時代に男女の恋愛がなかったわけではない。が、家制度が絶対だったのでそれは許されなかった。その鬱屈した心情が『曽根崎心中』や『心中天網島』(原作は近松門左衛門の人形浄瑠璃)で表現されている。幕府が庶民の勢いに押され必要悪として芝居を許可しながらしばしば上演差し止めにした理由である。芝居小屋=悪場所は幕府(政府)のプロパガンダでもあった。
膨大な数の芝居絵が残っているわけだから土佐沿岸部で芝居熱が異様に高かったのは間違いない。しかし人々は本格的芝居を見たことがなかった。地芝居が盛んに行われていたわけでもない。芝居熱は藩も禁止しにくい神社祭礼(夏祭り)の飾物絵として噴き出したわけだ。

絵金筆『船弁慶』
二曲一隻 紙本着色 縦一七一・八×横一八一・五センチ 高知県高知市朝倉 倉・前田町内会蔵
図録解説によると『船弁慶』は同名の謡曲を絵にしたものである。右から源義経、数珠を持つ弁慶、空から海から湧きあがる幽鬼を引き連れ薙刀で襲いかかって来るのが壇ノ浦で入水した平知盛の怨霊である。絵金は歌舞伎だけでなく人々がよく知っている人気の謡曲も絵画化している。
絵金は十八歲から二十一歲まで江戸で絵画修行をしているのでその際本場の歌舞伎を見ただろう。土佐に帰郷してからも大坂に出て芝居を見た可能性もある。ただ図録解説を読むと絵金の芝居絵の多くが歌舞伎台本や謡曲本に基づいている。絵金ばかりではない。芝居絵屏風を見る人たちもまた歌舞伎台本や謡曲本、読本など文字(言葉)を通して物語に馴染んでいた。
板木の原本を作るより一点物の絵を描く方が浮世絵師の報酬が高かったのはよく知られている。絵金の芝居絵屏風は紙本で高価な絹本はないが、絵具を大量に使う肉筆でしかも巨大だから画料はそれなりに高かったはずだ。土佐沿岸部の商人たちは海運業で裕福だったから絵金に多くの芝居絵屏風を注文することができたのである。しかしなぜ人の背丈ほどもある二曲一隻の屏風なのか。
恐らくだが実寸に近い芝居絵屏風は土佐の人々にとって3D的効果を持っていたと考えられる。見たいと熱望しながら見ることができない歌舞伎や謡曲の世界がそこにあった。絵金の絵は浮世絵の技法に沿いながらそれをわずかに逸脱している。「血みどろ絵」という通称はその妄想空間を示唆している。実際に芝居を見ることができる人たちには血といったリアリティは必要ない。しかし土佐の人たちにはそれでは刺戟が足りない。絵金は物語のクライマックスを描き舞台よりあくどいデフォルメを施している。人々は神社祭礼の無礼講の際に芝居絵屏風の前で即席の芝居を楽しみ各家に所蔵されている芝居絵を見ながら口や所作で劇を楽しんでいたのだろう。

絵金筆『鎌倉三代記 三浦別れ』
二曲一隻 紙本着色 縦一六九×横一八三センチ 高知県高知市赤岡町本町一区蔵
絵金の芝居絵の本格的展覧会は約半世紀ぶりだそうだ。が、一九七〇年代にブームがあった。怪奇な「血みどろ絵」として人々の興味を惹いたのである。ただそれは当時の高度経済成長時代と密接に関係している。七〇年代に東京への一極集中化が進んだがそれと同時に地方への関心も急速に高まった。
現地の祭礼に行ったことはないが、夜、巨大な絵馬台に飾られ提灯の光で照らし出された怪しげな芝居絵屏風の写真は容易にアングラ演劇を想起させる。寺山修司の恐山であり唐十郎の縁日の見世物小屋である。アングラ演劇は前衛劇だがその精神的故郷を日本の田舎や暗い祭礼の夜に置いていた。それが劇、非日常的な人や物、異様な物語を見せる見世物の原点だからである。絵金の芝居絵屏風にも同じことが言える。
唐十郎の状況劇場はテント芝居だった。いつも演劇を上演できる小屋を持っていなかった。しかしそれは意図的だった。前衛だがアングラ演劇は演劇の本質に迫る根源主義であり、演劇は小屋を作ることから始まるという考えがあった。そのため状況劇場に入団した劇団員たちはまず大工仕事で小屋を作ることから修行を始めた。
前述の藤村忠範さんの「土佐における江戸末から明治初期の地芝居の状況について」によると慶応三年(一八六七年)に土佐城下の川原に初めて芝居小屋と浄瑠璃小屋が出来たのだという。常設の芝居小屋ができたのは明治三年(七〇年)のことである。絵金の芝居絵屏風の前で、人々の暮らし中で演劇はずっと上演され続けていた。それが明治になってすぐに現実の芝居小屋になったわけだ。絵金の芝居絵屏風は演劇熱と一心同体である。切り離すことはできない。
なお今回の展覧会のタイトルは『幕末土佐の天才絵師 絵金』である。しかしまあ作品を見ればわかるように絵金の腕は天才とはほど遠い。あ、下手な絵師ではないですよ。しかし腕の冴えは北斎や歌麿に遠く及ばない。また北斎・歌麿だって天才、生まれながらに天から特別な才能を与えられた特権的絵師ではない。無粋な言い方になるが努力したのだ。『北斎漫画』などを見ればわかるでしょ。
最近の美術展のタイトルにはやたらと〝天才〟が多い。若冲も蕭白も北斎もゴッホも天才だ。一点でも傑作を描いた画家はみな天才らしい。ちょっと気にくわない。天才と言えば集客が増えるなら致し方ないですが。しかし言語的新鮮さは相対的なものだ。そのうち誰もが天才に飽きて〝大画家〟とかが新鮮っぽく感じられるようになるかもしれませんね。
鶴山裕司
(2025 / 10 /24 13・5枚)
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