『古今和歌集』に「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」というよみ人しらずの和歌がございますわね。昨日まで淵だった飛鳥川が今日は瀬になるように、世の中は変わり続けるという感慨を詠った有名な和歌です。淵が瀬になるような天変地異は阪神淡路大震災や東日本大震災を思い起こさせます。ただそういった激変が起こらなくても世の中は変化し続けています。
21世紀初頭の現代社会はとても動揺しています。ウクライナ紛争(戦争ですけどね)といった動乱が起こっているだけではありません。底の方から動揺しているように感じます。高度情報化社会がまだ発展途上というか未熟で試行錯誤を繰り返している感じです。次々オピニオンリーダーが登場するのですが確乎たる信を得ているとは言えません。誰もが一過性のオピニオンリーダーでありそのうち別の人に代わるだろうと達観している。
軸がないんですね。皆大声で自己主張を始め、そのうちのいくつかが未だ影響力のあるメディアで取り上げられて毎日話題になります。しかしかつてのような説得力がない。あるオピニオンがメディア側の人間の気まぐれで取り上げられている感じ。たしかに炎上も含めて議論が巻き起こりそれがジャーナリズムに見えたりするわけですが、同時に違和感を抱いたまま沈黙している多くの人々の姿も目に入って来てしまう。メディアが旗を振っても思い通りに人は踊ってくれない。そういう時代でもあります。
じゃあこのまま軸がない社会が続くかというとそうではないでしょうね。必ず軸は現れます。もちろん今までと同じように軸は複数生まれるでしょうけど、かなり確乎たるものとして見えてくるはずです。その一つは古臭い言い方になりますが倫理や秩序でしょうね。昨日と今日のことに大騒ぎし、とりあえず人の耳目を惹きつけるメディアの話題を冷ややかに見つめている沈黙の人々が望んでいるのは新たな倫理と秩序だと思います。大量の情報が溢れれば溢れるほど一個の人間の存在と力は相対的に小さくなる。アバウトな言い方ですが今は〝情報に乗る〟ことに皆必死ですが人間存在の本質はそれほど変わらない。地にしっかりと足を付ければ情報の大津波を冷たく眺められるようになります。
「うん?」
篤史は引き開けると同時に、手前へ転がって出てきた小さなプラスティックケースを手に取った。指輪ケースくらいのサイズでしっかり封ができるようになっている。(中略)なんとか開けて、そっとその木片を手に取る。持った瞬間、木材でないことが知れた。握ればもろく壊れそうな感触、しかもこの形状は――。
浮かんだと同時に思わず声を上げていた。かろうじて落とさなかったのは、落とせばきっと粉々になってしまうだろうと反射的に感じたからだ。
「どうした」
見城が驚いて立ち上がり、側にきて座り込んでいる篤史の上から掌を覗き込んだ。恐る恐る差し出すと、摘まんでしげしげと見つめる。徐々にその顔から笑みが消えた。
それを自分の掌に置き、なおも指先で転がす。
「骨のようだな。ずい分、小さいし、古いな」
松嶋智佐「署長官舎」
松嶋智佐先生は元白バイ警察官です。退職後に小説を書き始められました。警察のことを知り尽くしておられる作家様で現代に必要な情報的価値のあるお作品をお書きになります。もちろんそれだけではありません。松嶋先生の小説には警察という権力機構の光と闇が鮮やかに表現されています。ただ先生のお作品では闇は光の部分を際立たせるためにある。時に澱み矛盾にまみれていても警察官は社会を平穏に保つために必死で働いているのです。
「署長官舎」の主人公は丸野篤史青年。御津雲署の総務課庶務係の警官です。肩書きは巡査でまあ言ってみれば下っ端警官です。警察署長は署の敷地内にある官舎で暮らすよう決められているのですが、丸野の署の五明署長が退官するので上司の見城警部補と官舎の掃除に向かいます。そこで不審なパッケージを発見します。開けてみると人間の骨らしきものが入っている。
警官がそんなものを見つけたからにはほおっておくわけにはいかない。とりあえず五明署長の携帯に電話するのですが「あの骨は御津雲署の秘密なのだ」と言って電話を切ってしまいます。これは何かあると直観した丸野と見城は急ぎ署長の家に向かいますが留守です。テーブルの上に携帯があり一枚の古い家族写真が置かれていた。署長の家族ではありません。「骨」―「御津雲署の秘密」―「家族写真」というわずかな手がかりから丸野青年が上司の見城の協力を得ながら謎を解いてゆくというストーリーです。
「なぜだ。所詮、お前は所轄の総務、ただの巡査長だろうが」
「そうです。でも、僕は五明署長の部下です。今、署長がなにか悩んで、困っているのなら、僕は動かなくてはなりません。もし誰かに脅され、意図せぬことに巻き込まれているとしたなら、たとえ所轄の総務のただの巡査長であっても、捜し出して力にならないといけないと思っています。それに」
「それに?」
「五明署長でなくても、そうすべきだと思っています。誰かが困っているのなら、助けなくてはいけない。僕は警察官です」
だからお願いします、と頭を下げた。膝をついたまま、あとずさり、両手を突いて土下座しようとしたが、先に紀藤が口を開いた。
「五明が脅されているようだと言ったな」
「え。ああ、はい」慌てて頭を上げる。
紀藤は疲れたように首を左右に振った。「どうやら長い時間を経て、そこまで歪んでしまったらしい。エスカレートしてゆくことは十分、考えられた筈なのにな」
もう、限界なのだろう、と呟いた。そう聞こえた気がした。
「丸野」(中略)
「あの骨は」
紀藤は、なぜか辛そうな表情を浮かばせた。
「あの骨は、引き継ぎなんだよ」
同
現代らしくデータベースなども使いますが丸野青年は足を使って捜査します。署長の友人宅を回り御津雲署の歴代署長に聞き込みを行います。そしてようやく事件の核心に辿り着く。紀藤という御津雲署元署長が「あの骨は、引き継ぎなんだよ」と教えてくれます。五明署長は「あの骨は御津雲署の秘密なのだ」と示唆しましたが、それは彼個人の秘密ではなく御津雲署の署長らがずっとひた隠しにしてきた一種の証拠品なのでした。
それにはその骨の主に関わる御津雲署の捜査ミスが関わっています。不正が行われたというわけではありません。ただ手痛い捜査ミスによって、その骨が御津雲署の署長官舎にずっと秘匿されることになった。五明署長はしばしば「組織にいる限り、組織を守ることは最大使命のひとつだ」と口にしていました。歴代署長も同様で、公表すればほじくり返され社会的批判を受ける捜査ミスの証拠をひた隠しにして来たのでした。しかし定年退職を間近に控えた五明署長は事を明るみに出すと決心した。推理小説ですからその機微は実際にお作品を読んでお楽しみください。
松嶋先生の作品テーマが「誰かが困っているのなら、助けなくてはいけない。僕は警察官です」という丸野青年の言葉に込められているのは確かです。彼は下っ端警官で刑事ですらない。しかし警官の大前提である社会的使命に従って動く。そこに過剰なヒロイズムはありません。ただ物語全体が警察の不祥事の暴露というものですから、なおのこと損得を越えた使命感が際立ちます。
人間な何かにならなければならず、何かになったら必ず一定の社会的使命を果たさなければなりません。警官でなくても同じことです。自己の役割と社会的使命を自覚することが社会に倫理と秩序をもたらすのではないかと思います。
佐藤知恵子
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