小説にはSFモノ、近未来モノというジャンルがございます。もちろん未来は誰にもわかりません。もんのスゴいハイテク社会になっているかもしれませんし、戦争や紛争などで大混乱して、一部のハイテク技術は残っていても弱肉強食の野蛮な原始時代、戦国時代に逆戻りしているという設定も可能です。なんでもアリなんですね。そのあたりが時代小説との違いです。時代小説は当然過去の時代の社会的枠組みが課されますから、SFほど自由な世界を作り上げられません。
ただしもちろん人間という存在の形態はもちろん、思考方法まで変わってしまっているという設定は無理があります。一方でそういう不気味な存在を措定することはできますが、主人公はあくまで今の人間の延長上にいる感性・思考の持ち主でなければならない。
じゃあSF・近未来小説が架空の未来社会を措定して何を表現しようとしているのかと言えば、人間存在の本質ですね。リアルな現代社会を舞台にしていたのでは、様々な夾雑物に紛れて表現し難い人間本質をストレートに表現しようとするわけです。その意味でSF・近未来小説は時代小説に似ています。時代小説よりも現代的問題を表現しやすいという面はありますが。
一体ここはどこなのだろう。
昨夜の記憶を辿ってゆく。目隠しをされて、車に乗せられた。いつのまにか、車の中で眠ってしまったらしい。それで目が覚めたら、この部屋にいた。とはいえ、決して拉致されたというわけではない。ここに来たのは、自らが望んだことなのだ。
彼はまだ、ここがどんな場所なのか知らされていない。ただ聞かされたのは「本来の自分」を取り戻すことが出来る場所・・・・・・ということだけである。もう取り返しの付かないほど愚かで、欺瞞に満ちた都会の生活には飽き飽きなのだ。
長江俊和「リヨンとリヲン」
長江俊和先生は小説家で脚本家、映画監督でもいらっしゃいます。「リヨンとリヲン」は軽めの短編です。これを下敷きにして短いテレビドラマを作ることもできると思います。映像的表現であり物語もストレートに、しかしある焦点に向かって進んでいきます。
主人公はリヨンという青年です。彼は「目が覚めたら、この部屋にいた」。しかし「拉致された」わけではなく「自らが望ん」でやって来た。なぜか。「欺瞞に満ちた都会の生活には飽き飽き」だからです。リヨンは何者かからここは「本来の自分」を取り戻すことが出来る場所だと聞かされ自からやって来たのです。つまりリヨンがいる場所はユートピアということになる。もちろん反語です。
最初は探り合うようなものだったリヲンとの関係も、次第に打ち解けるようになった。趣味や思考も似ていたので、話がよく合ったのだ。蔦の絡まる家の一室で、二人は時間を忘れて話をした。お互いの家族のこと。子供のころのこと。学生時代のことや、大人になってからのこと・・・・・・。
驚くべきことに、これまで二人が送ってきた人生もそっくりだった。趣味や学校時代の成績、好きな本や音楽。乗っていた車の車種や色。飼っていたペットや最初に交際した女性の名前までも。
同
リオンが連れてこられたのは双子ばかりが住む村で、彼はそこで双子の弟リヲンと出会います。単に似ているのではなく本当の双子です。幼い頃に引き離されて別々の環境で育ったのですが「趣味や思考」はもちろん、それまでの生育環境もとてもよく似ていました。
双子は同時に生まれ同じように育てられますから、年の近い兄弟姉妹と同様、似た面を多々持つことがあります。が、成長するにつれてそれぞれの個性を見出してゆくのが普通です。「リヨンとリヲン」はその逆で、違う環境で育っても双子だからこそ似た面を持ってしまうという設定です。
リヨンは自分とそっくりな弟リヲンといっしょに暮らし、会話を重ねます。当初は自己の鏡像に近いわけですから当然話が弾みますよ。しかしすぐに限界が来る。双子でも人間は違う面を持っています。また自己と他者が違っていなければ人間は我慢がならない動物です。人間は常に他者を、いわば事件を求めています。当初ユートピアであると示唆されていた双子だらけの村でも事件は起こります。
アルマが身を乗り出して言う。
「私たちは質問に答えたわよ。さあ、教えて頂戴。犯人の目星がついたんでしょ。一体誰が、次々と村人を殺しているというの」
リヨンは戸惑った。この二人には、自分の考えを正直に話す必要はないのかもしれない。でも、少し考えて思い直した。
「ありがとう。おばさんたちの話を聞いて、僕は自分の推測に確信を持つことが出来たよ。やはり事件の元凶はすべて、この村の狂った実験の結果だったんだね」
二人は口をそろえて言う。
「どういうこと?」
「双子は殺し合う・・・・・・そういうことだ」
同
村には年の近い娘の双子も住んでいて、弟のリヲンはリリアとルルアという双子姉妹の妹、ルルアと付き合い始めます。しかしある日ルルアが殺されてしまう。それだけでなく、村の双子の一方が次々に殺されてゆくという事件が起こるのです。
リヨンは直観で犯人の目星を付けます。それを裏付けるために、村に来た時に何かと世話を焼いてくれたアルマとイルマ姉妹にこの村が作られた本当の理由を問い質します。村がどういう目的で作られたのかは実際にお作品を読んでご確認ください。重要なのはリヨンの「双子は殺し合う・・・・・・そういうことだ」という認識ですね。
姿形がそっくりな双子はどういった方法であれ独自の自我意識を打ち立ててゆかねばなりません。離ればなれに育ち、同じような人生を歩んだ(と設定されている)双子は、青年期までに済ませておかねばならなかった双子の兄弟姉妹の抹消(通常は精神的なものです)を実行しなければならないということです。
弟と二人で殺戮を繰り返した。アルマもイルマも・・・・・・生き残っていた村人全部・・・一人残らず・・・。
だが、それはただの憎しみだけではなかった。この忌まわしい世界から、悩み苦しむものたちを解放してあげたいという慈悲の念でもあった。そう・・・滅びこそが救いなのだ。
空はすっかり明るくなっている。神々しいほどの陽光が、血にまみれた二人の姿を照らしていた。まるで破壊の王の如く・・・・・・。(中略)
「兄さん、朝焼けだよ
「ああ・・・・・・」
そして、リヨンは力強く頷いた。
同
恋人だったイルマを殺したのは弟のリヲンでした。イルマは姉のアルマに対して抱く近親憎悪で深く悩んでいたからです。ただ物語はそれでは終わりません。リオンはリヲンが殺人犯であると知りますが、自分もまた殺人者だったのです。「彼(リオン)もここに来るまで、人を殺し続けてきた。荒れ果てた都会で、何人も、何十人も」とあります。互いに殺人者であることを知ったリオンとリヲンは残っていた村人を皆殺しにします。「滅びこそが救い」だからです。
「欺瞞に満ちた都会の生活には飽き飽きなのだ」という小説冒頭のテーマに戻れば、リオンとリヲンの殺人はあり得べきものかもしれません。しかしユートピアと措定された双子の村に渦巻く近親憎悪と偽善的な現実世界への憎悪は結びつきません。
読者として勝手なことを言わせていただければ、村人を皆殺しにしたリオンとリヲンが美しい朝焼けを見つめて相互理解を深めた(得た)シーンで終わるよりも、最終決戦として兄弟の殺し合いが始まるといった形で終わってほしかったという気がちょっとします。「滅びこそが救い」だとすればその刃は当然自己にも向かう。ユートピアが存在しなかったのならなおさらです。しかしこれはアテクシの勝手な願望でありして、スラリと読めて面白いなぁと楽しめる優れたお作品でございます。
佐藤知恵子
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