時代小説を読んでるだけじゃわからないかもしれませんが、そこを入り口に江戸のことを調べてゆくと、江戸時代を通して京都・大坂圏が文化・経済的優位を保っていたことがよくわかります。東京一極集中って言われるようになったのはいつ頃からかしら。もしかすると戦後の1950年代半ば以降くらいかもしれないわね。いずれにせよ東京が文化・経済のセンターになったのは、歴史的に見るとつい昨日のことよ。大阪の人たちがいまだに大阪弁に誇りを持ってる理由の一つね。
江戸の小説は舞台から強い影響を受けていたわけですが、その最初の偉大な作家は近松門左衛門大先生です。心中物の大家でござーますわ。この心中物、大坂はもちろん江戸でもヒットしました。で、大ヒットすると幕府が上演禁止令を出すんですね。現代から見ると幕府は絶対権力を持っていて理不尽もまかり通ったから、と考えがちですがさにあらず。江戸は杓子定規なくらいの法治国家でした。心中物上演禁止にも理由があります。
一番の理由は風俗壊乱。江戸社会の基本が封建制度にあったのは言うまでもありません。主人と家来、親と子には明確な違いがあり、後者は前者に忠義や孝行を尽くさなければならないという社会制度がありました。心中物はそれに抵触するんですね。身分差を超えた恋愛、親兄弟への裏切りなどなど、江戸社会の倫理と秩序を揺るがす出来事が舞台で堂々と上演され、しかも大ヒットするとはなにごとぢゃ、となったわけです。
逆に言うと心中物には庶民の反体制的な欲望や意図が込められていることになります。それはそうなんですが、大坂文化圏ではその要素は薄いわね。大坂は天領で幕府の締め付けが比較的緩かった。しかも日本の経済を牛耳る商業都市だったので商人の力がめっちゃ強かったのです(ああ「めっちゃ」と「むっちゃ」の正しい使い方がいまだにわからないわ)。体制側に一泡吹かせてやろうという意図よりも、庶民の本音があからさまに表現できたと言った方がいいかもしれません。多くの人が貧しかったですから、見合いや養子縁組による家と家の結びつきが大事で、家族で助け合わねばにっちもさっちもいかないと分かってはいましたが、やっぱ恋愛って素敵、ってことよ。
そういった自由な雰囲気があった大坂で笑いの文化が発達したのは自然なことね。柔らかい言い方でズバッと本音を言ったりする文化です。もちろん批評精神がなければ笑いは生じません。決まり切ったことを横から見て斜めから見て批判しおちょくるわけです。またとってもシャープな笑いはその対局である悲しみに結びつきます。笑わせて泣かせるという曲芸的芸が成立したりするのですわ。江戸時代にそれを行っていたのは浄瑠璃、歌舞伎、落語などですけど、近代に入ると漫才と落語、それに新喜劇に分化していくわね。中でも松竹新喜劇の藤山寛美先生はホントに大阪らしい笑いと涙でしたわ。
アテクシの子ども時代はけっこうテレビで寛美先生の舞台が放送されてたの。大人たちが「また寛美か、どうせワンパターンだろ」と悪口を言いながら、それでも見ていたのをよく覚えています。アテクシも大人ぶってバカにして見たわけですが、スッと引き込まれるのよ。結局笑って笑って最後に泣かされちゃうの。あれは素晴らし芸でしたわね。なんやかんやいって最後まで見させちゃうんですから。
車椅子に乗った美惠が向かったのは子供服売り場、ファミリアだった。
「春美にはきちんとピアノを続けさせて、毎年、発表会やコンクールがあるから、そのときにはこのファミリアのワンピースを着せたげて。ここのワンピースはね、流行に左右されへん。上品なデザインやからずっと着られるねん」
美惠はワンピースを十一枚買った。一枚一枚サイズが違う。一枚目はサイズ110、二枚目は120。三枚目は130だった。
「一年に一枚ずつ。必ず着せてあげてね。あの子が十五歳になるまで揃えておく。高校生になったら自分で選ばせてあげて。お願い」
遠田潤子「ファミリアのワンピース」
遠田潤子先生の「ファミリアのワンピース」の主人公は吾郎です。見合いで美惠と結婚して春美という娘を授かりました。しかし美惠は子宮がんにかかりまだ五歳の春美を残して亡くなってしまいます。亡くなる前に美惠は外出許可をもらい、吾郎といっしょにデパートに出かけて娘のためのワンピースを買います。それも十一枚。春美が十五歳になるまで、ピアノの発表会やコンクールで着るためのワンピースでした。美惠はピアニストになりたかったのですがその夢はかないませんでした。美惠は娘の春美に自分の夢を叶えてほしいと思っています。その願いをワンピースに託して亡くなったのでした。
「春美。落ち着いてよく聞いてくれ。お祖母ちゃんの気持ちもわかってあげてくれ。お祖母ちゃんは自分の娘の遺言を……お前のお母さんの遺言を守ろうとしてるだけだ。娘も孫も両方大事だから、つい言ってしまっただけだ」
「じゃあ、そもそも悪いんはお母さんやん。勝手に遺言残して、勝手にダサいワンピース買って、みんなお母さんのせいや」
かっと頭に血が上った。気がつくと春美の頬を叩いていた。しまった、と思うが遅い。
春美は涙の溜まった眼で吾郎をにらみつけると、店を飛び出して行った。慌てて義母が後を追った。(中略)
高校を出ると春美は家を出た。吾郎も義母も追わなかった。実質的に勘当だった。特に義母の掌返しは凄まじかった。
――あんたなんかもう孫やない。
面と向かってはっきり言い切り、春美を見捨てた。
同
亡き母の遺言通り、春美はピアノのレッスンに励みます。祖母も亡き娘の願いを叶えようと一生懸命です。春美のピアノレッスンの送り迎えなどをします。しかし春美は伸び悩みます。
高校三年生の十八歳になった春美は父と祖母に反旗を翻します。ピアノをやめて漫才師になると言い出したのです。吾郎と義母は怒ります。しかし春美は自分の意志を貫き通す。高校を卒業すると家を出るのですが、吾郎と義母は追いかけません。実質的な勘当です。よくある話といえばそうなのですが、悪人は登場しません。浄瑠璃や歌舞伎の人情物の「勘当」に近い。
家を出た春美は佐藤ヒデヨシという男と漫才コンビを組みますが売れない。春美が妻子ある男の子を妊娠・出産したのをきっかけにコンビ解散になりますが、その後も春美はヒデヨシを頼り子どもを預けたりしていました。ただ春美は阪神淡路大震災で被災して亡くなってしまいます。元相方のヒデヨシが春美の遺骨と子どもを預かることになったのですが、吾郎は春美の死も孫がいることも知りませんでした。ヒデヨシの家に行って吾郎が娘の遺骨と孫の彩を引き取るまでが物語の梗概です。
「ホステスが自慢できる商売やないのはわかってますから。家の借金返すために水商売なんて、なんも珍しないしね」
その横で佐藤ヒデヨシが情けない声で言った。
「ほんまやったら、僕が稼いでお姉ちゃんを助けてあげなあかんのです。僕は一発当ててお姉ちゃんに楽させるつもりで芸人になったのに」
*
「でも、ハルミが彩をかわいがってなかったわけやありません。ハルミはずっと悩んでたんです」
――あたしは勘当されたままでも仕方ないけど、この子にはね、ファミリアのワンピースを着せてやりたいねん。うちのお母さんが死ぬ前に買うてくれた、大事なワンピースやねん。
*
「高瀬さん、閑古錐って知ってはります? 先の丸なった錐のことです。役に立たへんけど静かで風格がある。人を傷つけたりせえへん、って」
はっと吾郎は顔を上げた。足を止め、呆然と佐藤ヒデヨシを見る。(中略)
閑古錐。春美は自分が押しつけた言葉を憶えていてくれたのか。そして、どれだけ苦しんでいたのか。
同
春美の遺骨と娘の彩を預かってくれていたヒデヨシの姉は、親の借金を返すためにホステスをしています。吾郎はヒデヨシから、春美が娘の彩に母親が残した「ファミリアのワンピースを着せてやりたい」と言っていたことを聞きます。また春美が子どもの頃に吾郎が言った「閑古錐」―役に立たないけど風格があって人を傷つけない錐(人のこと)―をずっと憶えていて、春美がそうなりたいと言っていたことも知ります。
小説の中に「浪花節だ」「そう、ここは大阪なのだ」という言葉がありますが、「ファミリアのワンピース」という小説はこれでもかというくらい人の弱さや残酷さ、優しさを抉り出します。40枚ほどの中編ですが、そういったポイントが10個くらいあるんじゃないかしら。浅田次郎先生は泣きの次郎と呼ばれたりしますが説経節のようなリズムがあります。遠田先生の「ファミリアのワンピース」はもっと物語的ね。泣きの物語要素が連続でたたき込まれていて、アテクシ、そーだろなーと思いながら、やっぱりラストで泣いてしまいましたわ。
こういった小説は大衆小説と呼ばれて純文学より一段下に見られることが多いのですが、書くのはとっても難しい。読者もわかっているのに説得されて泣いてしまう。また遠田先生はこういう作品を書く作家様ではなく、こういう作品〝も〟お書きになれる作家様です。作家の力量をじゅんぶんに感じ取れるお作品でございます。
佐藤知恵子
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