ちょこちょこ男性作家様に勢いが感じられないって書いてますけど、それはテーマ設定に原因があると思うのよねぇ。アテクシが思うに男の面白さって観念よ。抽象性って言ってもいいかしらね。文学を例にすると小説とはなんぞや、詩とはなんぞやを考え抜いて、優れた男性作家になると天にも昇るような抽象理論のお城を作り上げるわけ。それが作品に反映されるから面白いのね。先頃お亡くなりになった西村賢太先生もそうだったわ。あのお方、肉体派、無頼派なんかぢゃござーませんわよ。私小説とは何かをとことんお考えになった。西村先生はいわゆる極私的私小説作家ですけど、あれだけ作品を量産できた私小説作家はいないわ。考え抜いて私小説の勘所をつかんでいらしたのよ。
で、男の抽象観念指向はテーマを社会問題に設定しがちね。その時代時代の社会問題を一次的なテーマにして、そこでの人間模様を描くことで時代の本質を炙り出そうとしてきたわけ。常に小説のテーマというかネタを探しているのは女性作家も同じですけど、女性作家の場合、小さな日常からでもテーマを拾うことができますわ。男性作家とは逆に小さなテーマから大きな観念的世界へ進んでいけるわけ。
話が飛ぶようですが、古井由吉先生がお亡くなりになってもう三年ね。アテクシ、『杳子』を始めとして先生のお作品を読ませていただいて素敵だわぁと思ってたのね。で、『明けの赤馬』あたりから先生はエッセイイズムということをおっしゃるようになり、作品もエッセイ的な小説になっていきましたわね。これは凄いことになったなーって思ってたの。
でもねー、うーんうーん、古井大先生には大変申し訳ないですけど、案外先生のエッセイイズムは伸びなかった、すんごい可能性を秘めていたのにそれほどすごい作品は生まれなかったように思うのよ。女の言うことだから勘弁してねってノリで書いてしまいますけど、要は凝り過ぎ。疲れるのよ。エッセイイズムって上善水如でないと苦しいんじゃないかしら。
アテクシ、一時期古井先生の追っかけで、『ムージル』なんかも読んだのね。『愛の完成』と『静かなヴェロニカの誘惑』の読みは実にお見事。さすが学者さんでもいらっしゃるわと思いました。でもなんで『特性のない男』は批評なさらなかったのかしら。エッセイイズムというなら『特性のない男』よねぇ。自分でもちょっと無茶なこと言ってると思いますけど、現代小説でエッセイイズムを探求するなら『枕草子』や『方丈記』などよりも『特性のない男』や『失われた時』の方が面白いと思うのよ。それに詩(現代詩)なんかへの興味も引っかかったわねぇ。先生のエッセイイズムはレトリックと幻想駆使になっていった面がありますけど、それはエッセイイズムの本道だったのかしらって、ちょっと思っちゃうわけ。
最近、でもないですけど、川上弘美先生がエッセイイズム的小説をお書きになっています。男性作家のように肩肘張った文体ではなく、サラリと流れるようなお作品がおおございます。でもそれが魅力なのよね。文体に凝っても内面に下って深層心理的幻想を描いても、エッセイイズム小説の本筋じゃなくて、要は作家の視線が重要だと思いますの。作家の立ち位置って言ってもいいかしら。意地悪、皮肉、冷淡をごっちゃにしたような視線と立ち位置ね。それがあるから淡いエッセイイズム小説に深みが出るのよ。
家は池の前にあって、その池の向こう岸を黒い人たちが隊列を作って歩いているのが、朝、二階の窓から見えた。黒いスーツ姿の男の人たちだった。海里が住んでいるところは山の中なので、そういう出で立ちの人は日頃、まず見かけない。季節は晩秋で、標高千五百メートルの別荘地だから、スーツだけではひどく寒々とも見えた。
井上荒野「小説家の一日」
井上荒野先生のお作品は必ず読んでしまいますわ。ファンって言ってしまえばそれまでですけど、やっぱり優れた作家様なのよ。オール様に発表なさった「好好軒の犬」なんかは傑作でござーました。アテクシならホントに選りすぐった純文学秀作短編集に入れますわね。直木賞作家で大衆小説作家のイメージなんですが、骨格は純文学作家様よ。
「小説家の一日」は小説家の主人公海里が小説を書き始めるまでのエッセイイズム的お作品です。朝起きると窓から「黒い人たちが隊列を作って歩いている」のが見える。海里と夫の敏夫が住んでいるのは信州の山の中ですからちょっと異様です。でも怪異譚ではありません。
男たちは海里の家にやってくる。諏訪地方では七年に一度御柱祭が行われますが、海里たちの家が御柱の通り道になるので関係者が挨拶に来たのです。夫の敏夫が対応したので海里は男たちの姿を見ていない。窓から見た「黒い人たち」のままです。
今日は、かなり早いタイミングで、相手が先に挨拶した。杖を持っていないほうの手をひらひらと振ったのだ。慌てて海里と敏夫も頭を下げた。老婆は目をそらさぬまま、ニコニコしながら近づいてくる。
「こんにちは」
「こんにちは」
「あっという間に寒くなりましたねえ」
「そうですね」
「前にもお目にかかりましたよね?」
「あっ、そうですね」
海里と敏夫は再び慌てて、頷いた。会った気はしないが、否定するよりは肯定したほうがいいだろう。
同
海里と敏夫は朝の散歩を日課にしています。別荘地なので人通りは少ないですが、出会った人には挨拶するようにしています。でもそのタイミングがなかなか難しい。今朝は老婆に会いました。老婆が自分たちに気づいてくれる瞬間に挨拶しようと思っていたのですが、老婆の方から挨拶してくれた。短い世間話もします。老婆は「前にもお目にかかりましたよね」と言い、明日夫が迎えに来るのでこれが最後の散歩なのだと言います。ちょっと込み入った話になりそうですが、それだけ言うと老婆はあっさり去ってゆく。
海里は仕事を始めます。「プロの小説家になって三十数年」とありますからベテラン作家です。でも小説を書きあぐねるのはいつものこと。ぼんやりツイッターを読んだりします。でも参考にならない。「それはたぶん、それらが「聞かせたがっている言葉」であることと、関係があるのだろう」と考えます。発信(ツイート)して誰かに届けば完結する言葉たちだということですね。
杏里は敏夫といっしょにうどん屋に昼食を食べに行き、行きつけの鍼灸院に針治療に行きます。その間ずっと茫漠と小説のことを考えている。「故郷」とはなにかと考え、物語とはなにかと考える。でも「この頭の中のもやもやでいずれは書ける、という予感が正しいことがわかっている」とあります。ではトリガーはなにか。
鍼灸院を出ると辺りはもう薄暗くなっていた。
帰りは下りだ。行きよりは楽だが、砂利を踏んで転ばないように、ゆっくりと海里は歩いた。
向かい側から誰かが歩いてくる。黒い影みたいに見えるその人は、黒いスーツの男性だった。朝来た人たちのひとりに違いない。すれ違うとき海里は会釈したが、相手は無反応だった。朝と夜では事情が違うということだろうか。はじめてじゃないですよね? と海里は心の中で言った。
同
鍼灸院を出た海里は朝家を訪ねてきた男に出会います。自分から挨拶しましたが男は挨拶を返さなかった。理由はわかりません。でも近くで見ても男は「黒い影みたいに見えるその人」であり「黒いスーツの男性」のままです。年齢などは書かれていない。未知の、だけど一度会った(見た)はずの他者がなにも言わず、海里にはなんの興味も示さず去ってゆく。
これ以上小説の言葉を重ねると、エッセイイズム小説としては野暮になりますわね。人間のほんのわずかな暖かさと冷たさが際立てばいいのよ。
佐藤知恵子
■ 井上荒野さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■