三浦乾也作『色絵桜楓文鉢』
口径一八・四×高八・五×高台径七・四センチ 色絵陶器(著者蔵)
今回は三浦乾也の『色絵桜楓文鉢』。前回は尾形乾山だったので続編みたいなものですな。乾也は乾山六世ということになっているからである(異論はある)。
乾也さんは「第052回 奥州平泉中尊寺金色堂壁之金箔」で一度取り上げたことがある。中尊寺金色堂壁之金箔は乾也が明治十二年(一八七九年)に平泉中尊寺を訪れた際に、たまたま金色堂の壁に触った時に手についた欠片を和紙に包んで保管していたものである。
この包みは明治初期の交換会で柏木貨一郎の手に渡った。御維新後に国が初めて行った美術調査・壬申検査で、初代東京国立博物館館長の町田久成団長の調査団に同行した人だ。柏木は骨董フィクサーで益田鈍翁コレクションの中核になる名品を媒介した人でもある。
最長七ミリほどのゴミみたいな骨董だが、中尊寺金色堂は建造物では国宝指定第一号なので国宝の一部ということになる。国宝指定は昭和二十六年(一九五一年)だが(明治三十年[一八九七年]に重文指定されている)、その前にわずかな金箔片の価値を認めた乾也や柏木は偉い。骨董好きの鏡のような人たちである。
で、乾也『色絵桜楓文鉢』は春の桜と秋の楓を組み合わせた文様で乾山流陶器(琳派系と言ってもいい)では比較的ポピュラーな文様である。一番よく似ている作品は幕末京焼の名工、仁阿弥道八の『色絵桜楓文透鉢』だろう。源流を辿れば乾山に『色絵竜田川文透彫反鉢』がある。
【参考図版】仁阿弥道八『色絵桜楓文透鉢』
【参考図版】尾形乾山『色絵竜田川文透彫反鉢』
日本では能や茶道、華道、香道などの伝統が家元芸として継承されている。焼物、金工、漆器などの工芸の世界でも代々技術が継承されることがある。絵画ではすぐに狩野派が思い浮かぶ。一子相伝ではないが俳句の世界にもありますな。夜半亭初代は早野巴人で二代が与謝蕪村、三代が高井几董である。それはなぜなのかを説明し出すとややこしくなる。技術継承と同時に利権確保の面があるのは言うまでもない。
ただ観念的に捉えれば、日本では新たな表現は古い文化伝統から生まれるという考え方が一般的だったからだろう。だから文化の初源(文化の確立者)を定めそれを代々継承する。もちろん伝統が新たな創造の源になっているのは欧米も同じだ。しかし欧米では伝統よりも新奇な面に注目しそれを個人の才能に帰すことが多い。天才神話である。
また世界中どこに行ってもアートの花形は絵画だ。ただ日本文化は調和的な美を重視する。最も典型的なのは茶道の取合せである。茶席の花形は軸であったり茶碗、香合だったりとその都度違う。中心は決めるが調和が取れていなければよい茶席にならない。つまり軸(書画)はもちろん焼物、金工、漆器などの工芸品も全体的調和美を構成する調度として欠かせない。
そのため日本では書画・工芸に明確な序列を設けずそれぞれに独自の美を認める心性が生まれた。それが工人たちの創意工夫の源となり織部焼など世界に類を見ない工芸・美術品を生み出している。日本ではアート(芸術)とクラフト(工芸品)の境界が曖昧で優れた工人はジャンルを問わず芸術家なのだ。
日本で本格的に色絵陶器を作り始めたのは江戸初期の野々村仁清である。楽焼初代の長次郎や秀吉の文禄・慶長の役後に日本に渡って来た伝説的朝鮮人陶工らを除けば、仁清焼が確実に作家と作品を結びつけることができる〝作家モノ〟の始まりでもある。ただ仁清焼はほぼ初代で絶えてしまった。京焼で初めて代々受け継がれたのは乾山焼である。仁清は茶道具がほとんどだったが乾山は食器中心でバラエティ豊かだったからかもしれない。この乾山正統後継者の流れは幕末・明治初期まで続いた。その掉尾を飾ったのが三浦乾也である。
乾山は寛文三年(一六六三年)生まれ寛保三年(一七四三年)没である。乾也は文政四年(一八二一年)生まれ明治二十二年(一八八九年)没。約一五〇年に渡って乾山焼は継承されたことになる。
もちろん古美術の世界では初代乾山が絶対的な高い評価を受けている。ただ最近になって乾也の仕事が再評価され始めている。明治が遠い過去になり、波で砂浜が洗われて小石が露出するように当時を代表する作家の姿が見えやすくなったからだろう。また乾山その人が注目され後継者にスポットライトが当たったのは乾也が生まれた幕末になってからである。
乾山の業績を初めて世に広く知らしめたのは江戸後期の絵師・酒井抱一である。ただ抱一の乾山顕彰は光琳研究の過程で生まれた。その探求はおざなりなものではなく、今から見れば疎漏も多いが実証的であり現代的研究に近かった。
抱一は琳派の絵師である。この琳派がまたいかにも日本的絵画伝統なのだ。琳派は俵屋宗達を祖として尾形光琳によって大成された絵画様式である。しかし家元芸としては継承されなかった。にも関わらず後世に絶大な影響を与えた。宗達・光琳の影響を色濃く受けた絵師は誰でも琳派を名乗ることができたのである。琳派様式は今でも着物からポスターまであらゆる媒体で見ることができる。
抱一は光琳後継者を自認して文化十二年(一八一五年)に江戸で光琳一〇〇回忌を営み、光琳展を開いてその目録『光琳百図』を刊行した。光琳庶子・達二郎の養子先である京都・小西家と連絡を取って光琳関係資料を入手していたようだ。
なお光琳は日本美術最大のスターの一人だが私生活はメチャクチャだった。実家の雁金屋は京の裕福な呉服商だったが父死後に受け継いだ莫大な遺産を早々と遊蕩で使い果たしてしまった。生涯で六人の女性との間に七人の子どもをもうけてもいる(正妻との間に子はなかった)。子どもの養育を巡って裁判沙汰にもなっている。朝廷から法橋位を賜った腕のいい絵師だったがその波瀾万丈の生涯を追っていると、よくあれだけの数の完成度の高い作品を描き残せたものだなぁと思う。
それはともかく一〇〇回忌を終えた抱一は文人仲間の佐原鞠塢を京に派遣した。光琳墓の修復のためである。抱一は姫路藩第十六代藩主・酒井忠以の弟で貴人だった。そうヒョイヒョイ出歩けない。お金は出すが地道な調査は鞠塢に委ねたというところだろう。鞠塢は町人で骨董業で財を為した人である。今ではだいぶ敷地が縮小してしまったが、東京東向島に現存する百花園を開園して気ままに暮らした文人である。
鞠塢は小西家の協力を得て文政三年(一八二〇年)に京都妙顕寺本行院に新たに光琳墓を建てた。抱一宛には小西家から光琳下絵三八〇枚を預かった(現存しない)。これを元に抱一は文政九年(一八二六年)に増補版『光琳百図』を刊行した。『光琳百図』には乾山が光琳二世を襲名したなど鞠塢がもたらした新たな知見も掲載されている。
また鞠塢は小西家から「光悦より空中(光悦養子の長男)より乾山伝来の陶器製法」の秘伝書一冊を得た(これも現存しない)。かねてから焼物に興味があったようで伝書を携えて京焼の本場粟田口に尾形周平を訪ねた。周平は高橋道八の三男で乾山焼に魅せられて姓を尾形に改めた人である。次兄は仁阿弥道八。いずれも名工として知られる。仁阿弥道八は今回紹介した乾也作『色絵桜楓文鉢』の本歌(お手本)になった『色絵桜楓文透鉢』を作った人である。
周平から焼物の手ほどきを受けたことで鞠塢の焼物熱はさらに高まったようで、文政三年(一八二〇年)に周平とその弟子三人を引き連れて江戸に戻ると向島の自邸梅屋敷内に窯を築いた。今日「すみだ川焼」として知られる陶器である。鞠塢の京都行きは光琳事蹟調査のためだったが期せずして乾山の陶芸に繋がったわけだ。
それとは別に抱一は文政六年(一八二三年)に古筆鑑定家十代・古筆了伴の茶会に招かれ、了伴の四方山話から乾山墓が上野の禅養寺にあることを知った。抱一はさっそく禅養寺に乾山記念碑を建立し『乾山遺墨』を刊行した。全四十三点が掲載されているが書画三十四点で乾山本業の陶器はわずか五点である。抱一の時代すでに乾山贋作・模倣作が溢れかえっており、光琳真作の目利きには自信があったが乾山真贋判定は難儀だったのだろう。このあたりにも抱一の実証的研究姿勢を見ることができる。
抱一展などをご覧になったかたはおわかりだろうが抱一作品は実に美しい。中には古寂びて見える作品もあるが保存状態の良いものは昨日描かれたように鮮やかだ。最高の絹(本格的日本画は絹に描くのが一般的)や絵の具を使っている。また画題の多くは花鳥風月である。抱一は美しい風物しか描かなかった。ちょっと奇妙な言い方になるが、なぜ生涯に渡って美しい風物ばかりをとことん美しく描き出そうとしたのか不思議に思えてくるほどの完成度である。しかしそれが抱一が生きた時代精神の反映だった。
【参考図版】酒井抱一『燕子花図屏風』
二曲一隻 絹本金地着色 享和元年(一八〇一年)年 出光美術館蔵
江戸後期は江戸文化の爛熟期だった。絵の世界では円山応挙、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪ら綺羅星のような絵師たちが京都画壇に現れた。谷文晁、田能村竹田、浦上玉堂、池大雅ら南画(文人画)の全盛期でもある。彼らはいわゆるハイ・アート作家だが庶民芸術はさらに盛んだった。無数の浮世絵や絵草紙、読本、滑稽本などが出版され浮世絵師の活躍の場はいくらでもあった。出版は戯作者や文人・俳人と結びついており封建の世だが身分を越えた交流も活発になっていた。
江戸の絵は現代人の目にはどれもこれも似通って見えることが多い。その中で若冲や蕭白、蘆雪らハッキリとした個性が認められる絵師の評価が現代では高まっている。抱一も強い個性を示した絵師の一人である。ただ彼らは徒手空拳で未踏の表現領域を求めたわけではない。また彼らの個性はいわゆる日本画、南画、浮世絵などに細分化する当時の絵画状況の中から生まれている。画風を選んで個性を伸ばした。抱一の資質に最も合った絵画伝統は琳派だった。ただ抱一は琳派の絵を学ぶだけでなくそのルーツを探求した。自らのアイデンティティを確認したのだった。
このアイデンティティ探索も江戸後期文化の大きな特徴である。国学では本居宣長が現れ頼山陽は天皇中心の史書『日本外史』を著した。漢学でも考証学が盛んになった。原典を精査してその原点を極めようという学問である。百花繚乱の文化興隆期に様々なジャンルの作家たちが自らの原点を探求していた。まだ安定した太平の世だったので腰を据えた探求が可能でもあった。原点を探ることで江戸文化は質的に変化しようとしていた。
江戸文化の礎は元禄時代にある。松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門の時代で彼らがその後の庶民文化の中核になる俳句、小説、演劇の祖になった。絵画・陶芸では光琳・乾山兄弟が代表格である。大和絵や障壁画は貴族や高級武士のものだった。土佐派や狩野派の御用絵師がそれを担った。光琳は朝廷とも繋がりのある貴人画家だったがその画風は町衆らの庶民に愛された。乾山も同様である。茶陶中心ではなく教養ある町衆が好む食器類を量産した。焼物は伊万里(磁器)中心に変わっていったが雅味ある乾山流陶器の流れが絶えることはなかった。
三浦乾也作『色絵桜楓文鉢』
芭蕉、西鶴、近松、尾形兄弟は全員西の人である。また和暦では慶長八年(一六〇三年)から江戸時代だが桃山文化は元禄時代まで続いたと捉えるのが一般的である。戦国の激動の世が生み出したのが豪放磊落な桃山文化だった。江戸時代を通して西(京・大坂圏)の経済的・文化的優位は揺るがなかったが江戸の文人たちは独自の文化を作り上げつつあった。抱一の緻密な光琳・乾山研究は江戸中心の新たな文化創出(更新)の基礎になり得るものだった。しかしそれは頓挫した。言うまでもなく明治維新である。
乾山焼は乾山東下後、京では仁清の孫で乾山養子(乾山は生涯妻帯しなかった)の猪八に受け継がれた。江戸では弟子によって二代、三代と名跡が継承されたが三代・宮崎富之助が死去した後は後継がいなかった。抱一は乾山墓の発見を契機に富之助未亡人を探り当て、宮崎家に伝わる乾山自筆の名跡譲状など(現存しない)を譲り受けると文政六年(一八二三年)に四代乾山となった。光琳ではなく乾山後継だが抱一は畏敬する尾形家の名跡に連なったのである。
しかし抱一は陶芸家ではない。作品も友人の鞠塢の窯で焼いた数点のすみだ川焼が伝わるくらいである。画業で忙しく高齢だったこともあり抱一は翌文政七年(一八二四年)に友人で文人仲間の西村藐庵に五代の名跡を譲った。藐庵は新吉原の名主で書家、茶人、俳諧師で陶芸も手がける文人だった。この藐庵から乾也は乾山六代の名跡を受け継いだ。
乾也は実に摩訶不思議な人である。多芸の才人だったが著作がなく、今のところまとまった文書資料も発見されていないのでその人生の機微がわからない。出自は町娘と長唄囃子方の笛方を務める芸人の私生児で、幼い頃に父方の伯母・たけの元に養子に出された。伯母の連れ合いが江戸浅草の楽焼師・井田吉六だった。吉六焼は人気があり第十一代将軍徳川家斉公の御前で陶芸を披露したのだという。
この吉六がまた破天荒な人で、妻と子(養子の乾也)がいて浅草に店もあるのに突如出奔してしまった。江戸っ子らしい渡り職人気質で気ままに諸国を巡って暮らしていたようだ。乾也(当時は藤太郎)はまだ十六歲だったが一人で養母を養わなければならなくなった。
ただ吉六は藐庵と親交があり、藐庵は吉六が出奔した天保七年(一八三六年)に藤太郎、吉六、吉六の弟子・辨二郎の三人に乾山流陶芸習得の免状(許状)を与えた。併せて「乾」字を名乗ることを許した。吉六に与えた名は「乾斎」、辨二郎は「乾三」、そして藤太郎が「乾也」である。吉六は乾也が元服の年になっていて乾山流陶芸を許された一人前だから平然と出奔したのかもしれない。江戸らしい話である。吉六はまたふらりと江戸に戻ってきて最後は乾也の家で亡くなった。
三浦乾也作『色絵桜楓文鉢』
まだ十六歲なのに乾山流許状を与えたことからもわかるように藐庵は乾也の才能を高く評価していた。赤貧洗うがごとしの貧乏職人だった乾也に笠翁細工を作ることを勧めた。小川破笠が創案した技法で漆器に金銀・青貝を埋め込んで研ぎ出す細工物である。もちろん陶芸と漆芸はまったく技術が違う。しかし乾也はあっさり技術を習得して裕福な町人だけでなく大名家からも注文が入るようになった。
乾也は弘化二年(一八四五年)に藐庵から抱一が入手した乾山自筆の名跡譲状など一式を譲り受けた。藐庵が乾山流を託したのは乾也でありこれをもつて乾也を乾山六世とする識者がいる。乾也は生涯「乾山」を名乗らなかったので乾山六世とは言えないという見方もある。ただ四世・抱一、五世・藐庵ともにほとんど陶器作品を残していない。乾山流を継承して優れた陶器を作ったのは乾也が筆頭である。しかし乾也は陶芸・漆器職人では終わらなかった。ちょっと考えられないような転身を果たした。
藐庵が死去した嘉永六年(一八五三年)、浦賀にペリー提督率いるアメリカ船が入港した。黒船来航である。乾也は浦賀まで黒船を見に行き、経緯は不明だが翌安政元年(五四年)に勝海舟とともに長崎に造船術伝習生として派遣された。陶器や笠翁細工を大名家に納めるうちに武家との太い繋がりができていたようだ。利発でもあったのだろう。安政二年(五五年)に江戸に帰ると幕府に軍艦建造建白書を提出し、大名家を回り模型を水に浮かべるデモンストレーションを行って軍艦建造を働きかけた。
今では考えられない話だが安政三年(一八五六年)に伊達藩がまったく造船経験のない乾也を造船棟梁として招聘した。松島高城寒風沢で建造された船は開成丸と名づけられ翌安政四年(五七年)に見事進水した。明治中期まで稼働したようである。水戸藩が大金を投じて建造した軍艦は進水直後に横転したというから乾也の技術恐るべしである。乾也は伊達藩世禄百俵大番組の武士に取り立てられた。乾也生涯の絶頂期である。貧しい職人から武士にまで成り上がったのだった。伊達藩産業振興のために仙台で堤焼の指導も行っている。
だが得意の時期は長く続かなかった。乾也は明治維新で俸禄を失い蓄財も投機の失敗で無くしてしまった。朝敵の嫌疑で入牢もしている。困窮した乾也は神奈川秦野の豪農・梶山良助(雅号・関山)を頼り秦野で窯を開いた。乾也は画家・鈴木鵞湖の次男・鼎湖(乾也の妻の実家を継いだので石井姓を名乗った)を養子にしたが、関山は鵞湖の絵の弟子という縁だった。
秦野で乾也は茶碗や皿などの陶器のほかに関山の水道工事事業のために土管を焼いた。かなり早期の水道敷設事業だった。また電線が敷設され始めたので碍子も焼いた。一昔前までよく見かけた白い卵形の絶縁体である。日本で初めての碍子製作だったと言われる。まあ普通の陶工は作ったりしませんな。碍子は工部省の認めるところとなり乾也は事業拡大を目論んだがこれも失敗に終わってしまった。
明治八年(一八七五年)、五十四歲になっていた乾也は向島長命寺に移り住み境内の一角に窯を築いて作陶し始めた。以後六十七歲で死去するまで長命寺で細々と陶器を作り続けた。隅田川の土を使ったので純粋な東京のお国焼である。緒留めや簪の飾りにする色鮮やかな珠は乾也珠と呼ばれて人気があった。江戸っ子の粋を伝える精緻な印籠は評価が高い。その一方で今回紹介したザックリとした乾山風の焼物も作った。長命寺の敷地も縮小してしまったが当時からあった櫻餅の「山本や」が今も営業している。学生だった正岡子規が一夏過ごした店だが記録魔だった子規は乾也について書いていないので会っていないだろう。
偉人とは言えないが乾也は時代を先取りした人である。才能豊かだったが時代の荒波に翻弄された人でもあった。養父・吉六は貧乏だったので乾也を寺子屋にすら通わせていない。十二歳頃まで読み書きができなかったらしい。しかし藐庵から乾山流を許された十六歲頃には習得している。陶芸だけでなく漆芸の技術もあっさり身に付けた。造船技術もそうで、長崎留学に同行した勝海舟は幕府の軍艦奉行になったが造船技術は体得していない。乾也は外国語がまったくできなかったはずだが先を読んで碍子も作った。陳腐な言い方になるが勘が良くて学習能力が高いマルチな才能を持った人だった。
乾也のいっけん脈絡のない才能の開化は激動の明治初期ならではのものだろう。しかし世の中が大きく変化する時代には乾也のような人が現れるのかもしれない。元禄文化の先駆けとなった本阿弥光悦の本業は刀剣の目利きだが一流の書家で陶芸家で蒔絵師だった。光琳も絵だけでなく蒔絵を手がけた。乾山は陶芸家として知られるが最も自信があったのは書だろう。陶器に絵を描き書を添えたのは乾山が初めてである。また乾山流後継以外にこの手法を用いた陶芸家はいない。そのくらい絵と書を合わせて洗練された陶器を作るのは難しい。激動の時代には別々に流れていた川の堰が壊れ、合流してまた分岐してゆくことがあるようだ。
なおそれほど有名な陶芸家ではないので乾也贋作はないだろうと思っていた。しかし気をつけて見ていると明らかな贋作、模倣作がある。骨董はどこまで行っても厄介ですな。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2023 / 02 / 12 20枚)
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