著者蔵 縦六・二×横三・一センチ 折り畳んだ和紙に万年筆書き
二〇一八年最初の回なので、僕が持っている最高の骨董の一つをお目にかけたい。三浦乾也採集の漆片である。三浦乾也については後で紹介するが、幕末から明治初期にかけて活躍した陶工で発明家である。折り畳んだ和紙の中に金箔付き漆片が二つ入っている。大きい方が約七ミリ、小さい方は約二ミリである。和紙の表に「奥州平泉中尊寺金色堂壁之金箔 明治十二年五月十七日 三浦乾也」と書いてある。
表書きから明治十二年(一八七九年)五月十七日に乾也が中尊寺を訪ねたことがわかる。その際、恐らくだが金色堂の壁に指が触れ、ごくわずかだが漆と一緒に金箔が剥がれてしまったようだ。乾也は手を払って捨てることをせず、懐紙に大切に包んで来歴をメモしたのである。文字は万年筆で書かれている。明治十年代に万年筆はかなり高価で珍しかった。乾也が相当に〝ハイカラ〟な人だったことがわかる。
中尊寺金色堂は岩手県西磐井郡平泉町にあり、奥州藤原氏初代・藤原清衡が天治元年(一一二四年)に建立した藤原家の菩提を弔うための仏堂である。金色堂の須弥壇内には藤原清衡、基衡、秀衡のミイラと泰衡の首が納められている。よく知られているように源頼朝と対立した義経を庇護したため、泰衡は頼朝軍によって滅ぼされ首を切られた。眉間に八寸の鉄釘を打たれるという凄惨な晒し首にされた後、縁者によって金色堂に安置されたのだった。
当時の奥州は金の産地だった。そのため金色堂は内側も外側も豪華な金箔貼りである。鄙だった平泉が平安京に次ぐ第二の都市と言われるようになり、平泉文化を花開かせることができたのは豊富な金の産出ゆえである。都から僧侶や仏師らを招いて開山した金色堂は平泉文化の粋なのだ。また基本的に創建当初の姿を保っている数少ない平安時代後期の木造建築物である。そのため昭和二十六年(一九五一年)に国宝に指定された。乾也採集の「中尊寺金色堂壁之金箔」は吹けば飛ぶような断片だが、国宝の一部ということになる。
同 裏 「柏」印
ただこの「中尊寺金色堂壁之金箔」が面白いのは国宝の一部という理由だけではない。和紙の裏側には「柏」の印がある。柏木貨一郎の印で、乾也採集の漆片は貨一郎の所蔵物の一つになったのである。またこの漆片は、桃山時代から江戸時代頃に作られた漆箱の中に納められた、たくさんの蒐集品の一つだった。漆箱外側の貼札には「古物出土中物五 第四拾七號 天平時代 経巻簾三 外小物 土中品 五拾壱点 時代文庫入」とあり「碧雲臺」の印が押してあった。言うまでもなく益田鈍翁の所蔵印である。つまり漆片は「三浦乾也→柏木貨一郎→益田鈍翁」の伝来品である。
入手経路を簡単に書いておくと、ある日懇意にしている骨董屋が「碧雲臺」の貼札のある益田鈍翁旧蔵の漆箱を買ってきた。貼札にあるように約五十一点の細々とした骨董の小品が入っていた。「古物出土中」とあるが、縄文時代の小型の石斧や勾玉から蝶の形をした神護寺経帙の金具、天平時代から平安時代の古裂、江戸時代の携帯用の方位計など驚くべきバリエーションの骨董が詰まっていた。ほとんどの骨董が和紙に包まれていてその多くに「柏」の印があった。最終所有者は鈍翁だが蒐集したのは貨一郎だということだ。
柏木貨一郎は天保十二年(一八四一年)生まれで明治三十一年(一八九八年)に五十八歳(数え年、以下同)で没した古美術研究家である。生家は江戸の神田泉橋の糸屋(辻家)だが、幕府小普請方大工棟梁の柏木家の養子となり九代目を継いだ。幕府関係の建物の修繕を指揮する家柄で旗本である。貨一郎は養子なので血のつながりはないが、柏木家は江戸中期を代表する漢詩人・柏木如亭を生んでいる。
御維新後、貨一郎は明治政府の博物館行政にも関わった。しかし文筆家でも明治政財界の立志伝中の人でもないので、その生涯の全貌を詳細に辿ることはできない。ただ同時代の人々の証言から骨董に関する希代の目利きだったことがわかる。若い頃から骨董蒐集に熱を上げていたが、官職を辞してからはそこで培った人脈を活かして驚異的コレクターになった。
明治初期には今ほど日本美術の研究が進んでいなかった。そんな中で貨一郎は的確に価値ある美術品を見極め蒐集した。貨一郎が入手した骨董品は不思議なほど高値で売買されるようになったと同時代の福田寒林が証言している。貨一郎は明治初期に、古美術を中心とする日本美術の価値(つまりは値段)を決定した先駆者の一人だった。
貨一郎は岡倉天心らとともに、アーネスト・フェノロサとウィリアム・ビゲローの日本美術蒐集に協力した主要人物の一人である。フェノロサ・ビゲローコレクションはボストン美術館に収蔵され、海外では世界最高峰の日本美術コレクションになっている。初期の帝大お雇い外国人教師で大森貝塚を発見し、帰国後約五千点の日本の陶器をボストン美術館に売却したエドワード・モースの著書『日本その日その日』にも貨一郎は登場する。
晩年の貨一郎は骨董商のような仕事をしていた。もうちょっと大胆な言い方をすれば、骨董業界ではよくあることだが、あまり表立って名前を出したくない骨董売買のフィクサー(黒幕)だった。この貨一郎の眼力と蒐集力を高く評価し、彼を介して数々の名品を購入したのが益田鈍翁だった。
益田鈍翁は嘉永元年(一八四八年)に生まれ昭和十三年(一九三八年)に九十一歳で没した明治の実業家である。政商・三井物産の大番頭を務めたが、鈍翁の名を今に至るまで知らしめているのはその古美術収集品である。鈍翁の死後、その財産は継嗣の太郎が相続したが、第二次世界大戦後に日本政府が新設した財産税が課せられることになった。実質的な財閥解体施策の一つである。益田家に課せられた実効税率は八〇パーセントにもなったのだという(『益田鈍翁の美の世界 鈍翁の眼』平成十年[一九九八年]五島美術館開催図録所収 鈴木邦男「鈍翁コレクションのアルケオロジー」)。
それもあって益田家では土地などはもちろん、古美術品も売却することになった。鈍翁コレクションがいかにレベルの高いものだったのかは、平成十年時点で国宝六点、重要文化財二十点が含まれていることからもわかる。鈍翁旧蔵品の国宝・重文指定は今後も増えるかもしれない。
鈍翁コレクションの大半は日本橋の骨董商・瀬津雅陶堂が買った。ただその全貌は明らかにされていない。難しいところなのだ。美術館で作品を鑑賞するだけで絵や骨董を実際に買ったことのない人は、学問という前提ならいくらでも調査できると思いがちである。しかし現実はそう簡単ではない。尋常ではない大金を出して品物を買った個人所有者がおり、転々と所有者を変えてゆく以上、調査には限界がある。というか調査してはいけないような部分も美術界にはある。特に骨董品は人間と同じように灰色の部分を持っている。
ただ瀬津雅陶堂は昭和六十四年(平成元年[一九八九年])に『散華 仏教美術断片集』という私家版図録を刊行した。鈍翁コレクションの中から飛鳥・奈良・平安朝に作られた仏教美術の残闕の優品を紹介した図録である。しかし三井の大番頭として多忙を極めた鈍翁が自分の足でこれらの骨董を蒐集できたはずがない。その骨董の〝筋〟から言って、鈍翁所有の細々とした骨董の優品は、貨一郎蒐集だと言っていい。
骨董は名品になればなるほど動かすのが難しくなる。鈍翁と貨一郎の間にも名品の売買・所有を巡る激しいつばぜり合いがあった。生前の貨一郎は金に詰まると鈍翁に借金をし、期日までに返済できないと担保にした古美術品を鈍翁に譲り渡していた。ただ貨一郎は明治三十一年に渋沢栄一を訪ねるために家を出て、その往路か帰路に汽車に接触して転倒し亡くなってしまう。貨一郎が自分に万が一のことがあれば優品を譲ると約束していたこともあり、鈍翁は貨一郎の養継嗣・祐一郎から骨董の名品を買い取ることになった。『源氏物語絵巻』『地獄草紙』『鳥獣戯画残欠』『麻布山水図』などの名品が鈍翁所持になった。
ただそれは主だった骨董品であり、鈍翁は祐一郎から、貨一郎旧蔵の細々とした骨董を数多く購入したようだ。今回紹介した漆片が入っていた箱には「第四拾七號」と書かれている。同様の蒐集品が納められた箱が、最低でも四十七個は鈍翁の元にあったということだ。骨董のさや当てを通した愛憎入り交じる関係だったせいか、鈍翁は自伝でも貨一郎にはまったく言及していない。しかし鈍翁旧蔵の骨董小品の多くは貨一郎旧蔵だろう。漆の断片にまで美術的な価値を見出していた人は、この時代、ほとんど貨一郎しかいない。
骨董好きなら鈍翁の名前は聞いたことがあると思うが、貨一郎の名前はなじみが薄いかもしれない。しかし貨一郎は日本の〝近代〟美術史の全貌を知る上で最も重要な人物の一人なのである。
よく知られているように幕末から明治初期にかけて日本全土を廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。日本の神仏習合の歴史は古く、実態として神と仏を一体のものとして崇めて来た。だが神道を奉じる天皇を日本の君主と位置づけた明治新政府の成立前後から、神道と仏教を明確に分離し、仏教遺物を破壊して僧侶の特権も奪ってしまおうという日本では珍しい原理的運動が起こった。実際には明治維新の世相不安に煽られた民衆が、仏教をフラストレーションのはけ口にして破壊に明け暮れた一種の暴力的打ち壊しだった。
廃仏毀釈の発端になったのは慶応四年(一八六八年)三月十三日に発せられた太政官布告である。「神仏分離令」と呼ばれる。それを受けて日本各地で仏閣の破壊運動が始まったわけだが、明治政府の意図は日本国は天皇を頂点とする神国だと宣言することにあり、必ずしも仏教を排斥することにはなかったと言われる。廃仏毀釈で各地の貴重な歴史遺産が失われることに慌てた政府は、明治四年(一八七一年)に「古器旧物保存方」の太政官布告を発布した。これ以降、政府は本格的な歴史遺産の保護を開始することになる。明治三十年(一八九七年)には「古社寺保存法」が交付され、歴史的価値の高い建築物や遺物を「特別保護建造物」や「国宝」に指定して保護するようになった。現在にまで至る文化財保護の基礎ができたのである。
ただ廃仏毀釈によって多くの仏閣が失われ、それまで寺院が大切に保存してきたたくさんの仏教遺物が民間に流出したのは事実である。ほとんどの人は鬱屈した心情を仏教遺物の破壊で晴らしただけだが、いつの時代でも違う視点を持つ人はいる。古美術愛好家にとってこの時代は千載一遇のチャンスだった。彼らは古寺などから流出した古物を安値で買いまくった。骨董の常として、そこには〝投機〟的心情が介在した。露骨な言い方をすれば、後で必ず高くなるという確信があったのである。いい悪いの問題ではない。今だってほとんどの人が、値段を見て初めて古い仏像や陶磁器の価値や希少性を思い知る。先見の明を持つ人たちが古物を消失から守ったのだとも言える。
この廃仏毀釈によって古物が大量に流出した期間は、おおむね明治元年から十五年頃までである。明治三十年代以降は、簡単に言えば明治最初の十五年ほどに流出し、高止まりどころかどんどん値を上げてゆく古物の争奪戦になった。
明治の著名コレクターは鈍翁を筆頭として、根津嘉一郎(根津美術館)、原三渓(三渓園)、藤田傳三郎(藤田美術館)、井上馨、赤星弥之助らがいる。しかし彼らは政財界のトップに立つ〝旦那衆〟である。当たり前だが骨董商らが持ち込む古物を次々と高値で買った。ただこの時代の骨董商には今とは質の違う人たちがいた。明治の美術行政に深く関わった人たちがその後に実質的な骨董商になっていったのだった。実業家が政商と呼ばれ政府中枢と密接な関係を保っていたように、彼らはいわば骨董政商である。貨一郎もその一人で、彼と最も太いパイプを持っていたのが益田鈍翁だった。(②に続く)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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