シリーズ【日本 “ 現代 ” 文学の、標的=始まり】という、よくわからない特集ページで、ムラカミハルキとオオエについて語られている。特に「海外のムラカミハルキ」というテーマでリポートされた、辛島デイヴィッドと河野至恩の論考が優れていて、興味深い。
ムラカミハルキについては、率直に言って、わからないことだらけだ。柄谷行人は「構造しかない」と、蓮實重彦は「結婚詐欺」(のように共感と融和の身振りをする)と言ったという。その通りだ。四十五歳以上で村上春樹の小説を最後まで読み切ることができる人間は知性がないのではないか、とすら思う。
そういうふうに感じている者は、自分だけではないことも知っている。だがここまで評価が高まると、自分たちの方が間違っているのか、と思う瞬間がなくもない。
大江健三郎のノーベル賞には、違和感はなかった。それに相応しい素晴らしい作家だと思うかどうかは人それぞれだろう、というぐらいのスタンスはとれる。ノーベル文学賞が素晴らしい賞かどうかだって、そのぐらいのことに過ぎない。が、ムラカミハルキがその候補(という形で正式に発表されるのか?)というのは、何かの冗談としか思えない。
構造しかないからこそ、海外でも違和感なく読めるのだ、というのはわかる。しかしそれならば日本人の、ムラカミハルキをわざわざ読まなくともいいはずだ。蓮實重彦の言う「結婚詐欺」のごとき融和の身振りが、もしかして「和」風なものとして捉えられているのか。
しかし辛島デイヴィッドによると、柄谷と蓮實が言っていることは今も変わらない。変わったのは世界の方だ、という言葉に、何か少しだけわかった気がした。抽象的な構造で世界を捉え、「Win Win」と称する融和の身振りで増殖を図る。それはこのネット社会であり、ムラカミハルキのテキストは、今の世界を予言し、体現してきたのだ、と。
「世界」の雛形を示すこと。それは確かに文学の重要な役割で、直観力に秀でた文学者が成す業である。けれどもそれが「文学者」の仕事であるからには、相対化された世界認識のもとに行われるはずだ。ムラカミハルキは作家であり、それもひどく人気のある作家であることは間違いない。が、その世界把握は「直観」というより「直感」で、相対化された認識によるというより本能的に為されているように思われる。
河野至恩のリポートによると、ムラカミハルキはイスラエルでの文学賞受賞の講演で、壁にぶつけられて割れてしまう卵があるとすれば、自分は必ず壁でなく卵の味方である、と述べた。政治的にもとれるこの発言についてはしかし、イスラエルではほとんど無反応であったという。
それは単に「ハルキらしくない」というのではなかろう。ムラカミハルキはこれまで国内でも、オウム真理教の事件にアプローチしてもいる。ただ必ずしもファンではない我々が、そこに覚える違和感とは「ハルキらしくない」ではなく、「文学者らしいアプローチではない」というものだ。
文学者が社会にアプローチするとき、単に情緒や皮膚感覚を超えた相対化が起きるものである。それが世界を把握、認識しようとする文学者特有の社会性というものだ。しかし少なくともムラカミハルキは逆説的に、現代においても変化しない “ 文学とは何なのか ” を示しはする。
谷輪洋一
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■