ようやくコロナが下火になったと思ったら、ウクライナ戦争の影響で円安でえっらい騒ぎだわ。物価高ですけど、今まで120円とかで買えてたものが130円超えるようになったのだから当然よねぇ。まあ10パーセントくらいの値上がりは当面続くわね。厳しい世の中よねぇ。
それでもアテクシ、ふにふに暇にまかせて小説を読んでいたりするわけですから、平和な世の中ではありますわぁ。この平和が続くといいわね。戦車と歩兵繰り出して市街戦になる戦争なんて、冗談じゃないわよ。いくら円安になってもいいけど、それだけは阻止してちょーだいねって政府にお願いしたいわ。みんな口々に自分の権利を主張する世の中になってますけど、それさえ抑圧される世界って最低だわ。物事にはやっぱり優先順位がありますわよ。
来週の木曜日、空いてる?
と良治に訊かれたのは、先週の水曜日、九月九日のことだった。
「どうして?」
九月に入ると同時に教室でのレッスンが再開されたが、名香子は非常勤という立場の気安さもあってまだしばらくはオンライン授業だけにするつもりでいる。夏休み明けの教室再開が七月半ばに告知されたとき、教室長の佐伯さんにその旨を申告し、
「名香子先生の授業が復活できないのは残念至極ですが、まあ、仕方ありませんね」
と承諾も得ていた。
十代の終わりに自然気胸を患い、そのときは短期の入院で済んだのだが、それから何度も軽い再発を繰り返している。直近はいまから七年前、四十歳のときだった。
四十七歳というのは、たとえ感染しても重症化の可能性のほとんどない年齢ではあるが、そうはいっても気胸の既往症がある場合は、厳重に感染予防するのが得策であろう。
白石一文「我が産声を聞きに」
白石一文先生の「我が産声を聞きに」の主人公は主婦の名香子です。七歳年上の良治とは結婚二十二年目で、一人娘の真理恵はもう大学生で一人暮らしを始めています。名香子は英語力を活かして英語塾の非常勤講師をしており、夫の良治は理科系の研究職です。
良治は自分が発明した特許を巡って会社と揉めたことがあり、その和解として会社側からボーナスが支払われてそのお金で一戸建てを購入したとありますから、優秀な研究者ですね。名香子もずっと英語講師として働いていますから経済的には余裕もあります。そのうえ、娘も大学生で手がかからなくなっている。まあいわば、夫婦生活の第一段階が円満に過ぎ、第二段階に入ろうとしている夫婦の物語です。
「我が産声を聞きに」は何枚くらいのお作品かしら。もう数えるのがめんどくさくなってしまいましたから勘で言うと、250から300枚くらいかしらね。単行本一冊分の原稿量でござーますわ。で、引用は冒頭なんですが、ゆったりとした出だしです。ある意味、とってもゆったりしている。ゆったりし過ぎているかもしれませんわね。事件が起こるまでに30枚くらいかかっているかしら。で、夫婦モノですから、当然、事件は夫婦間で起こります。
実のところ、彼女と出会って、彼女のことを本当に好きになってみて、ヘンな話なんだけど今回とまるきり似たような気持ちにとらわれたんだ。ああ、この僕の人生にも〝もう一度〟があったんだ、そしてこの〝もう一度〟こそが間違いなく最後のもう一度なんだろうって。
そうやって、人間は長い人生の中で幾度か〝もう一度〟のチャンスを与えられるんだと思う。そのチャンスを摑むか、それとも見送るかは全部自分次第なんだ。思い返してみれば、僕にも何度かそうしたチャンスはあった気がする。なかちゃんと結婚する前も、結婚した後もね。そしてそのどれもを僕は見送ってきた。現状維持を選び続けてきた。それはそれで間違いではなかったと思うし、悪いことでもなかった気がする。何よりそうした選択は全部自分自身の責任だったんだと思う。
その結果として、とうとういま僕に最後の〝もう一度〟がやってきた。
これをまた見送って現状維持を選ぶのか、それとも今度こそ人生をやり直す道を選ぶのか。そこもまた全部僕自身の判断にゆだねられているんだろうね。
今回、僕は、やり直す方を選んだんだよ。
同
良治に来週木曜日に付き合ってくれと言われたのは、彼の肺に肺がんが見つかったからでした。名香子は良治といっしょに医者の診断を聞きますが、幸い早期発見で手術をすれば完治する可能性が高いと言われます。ホッとして病院帰りに良治と昼食をとります。その時に、名香子は思いもかけなかった別れを夫から切り出されます。
良治は「実は好きな人がいるんだ」と切り出します。相手は高校の時の同級生で、大学時代に付き合っていて結婚の約束までした香月雛という女性です。名香子との生活はこの昼食を最後にして、良治は雛の家に行って肺がんの手術を受け療養し、彼女と暮らしてゆくつもりだと告げます。良治は「なかちゃんが嫌いになったわけじゃない。ただ、彼女のことがもっともっと好きになって、どうしても彼女と一緒に生きていきたいと願うようになった、決断の理由はそれ一つきりなんだ」とも言いました。
生命の危機を感じる肺がんがきっかけではありますが、まあ身勝手な言い分で、中高生みたいです。でも男と女が別れるときはこんなものかもしれません。人間、年を取っても外見ほど中身は成熟していませんから、人にもよりますが時々こういうことが起こる。ユングのいう中年の危機でもありますね。ただ良治は大人で理科系の緻密な人です。一戸建ての家を含め、財産は全部名香子に残すと言います。また家には良治の私物がたくさんあるわけですが、それも処分してかまわないと言う。
良治は雛と暮らし始めれば会社を退職すると言いますが、退職金の半分は名香子に渡すとも言います。優秀な研究者ですから、それなりの額でしょうね。あくまで私的な離婚協議ですが、決して名香子には悪い条件ではありません。ま、言ってみれば、良治は身勝手ですが、それなりの誠意を示している。
「もっと早く、名香子さんがここに来ると思っていたんです、私」
雛も再びアップルパイにフォークを入れながら言う。
「だけどそんなこともなくて、徳山君(良治)が是非築地で診てもらいたいというので、彼を連れて副院長先生のところに相談に行って、あらためで検査も受けたんです。(中略)築地の副院長というのは満島先生というんですが、私が二十代で子宮がんになったときの担当医だった方です。(中略)そしたら今度は五年前に乳がんになってしまって、そのときも満島先生に何かとお世話になりました。なので先生とはもう三十年近い付き合いなんです」
ごく当たり前の顔で雛は話していたが、彼女が子宮がんと乳がんの二度もがんを患った事実に名香子は胸を衝かれる思いだった。
「そういうわけで、同病相憐れむじゃないけど、徳山君が無事に治療を終えるまではうちで面倒を見てあげてもいいかなって・・・・・・。(中略)肺がんの彼を放り出すわけにもいかないし、とりあえずは引き受けるしかないような気になったんですよね」
そして香月雛は、
「それに、名香子さんがもっと早くこちらにいらっしゃると思っていたんです、私」
先ほどと似たようなセリフを口にしたのだった。
同
良治が家を出て行っても名香子は取り乱すこともなく、怒り狂うこともなく、なぜだろうとぐるぐると自問自答しながら日々を送ります。ただそれでは物語は動かないわけで、ようやく良治の彼女である香月雛に会いに行きます。会ってみると雛はまあ、もの凄く魅力的という女性ではなかった。がんの手術を二回受けているせいか、良治と同い年なのに老けて見えた。また雛は良治は「単なる居候に過ぎないんです」と言います。裏は取れませんが肉体関係はないということですね。ではなぜ良治はそれほど魅力的とは言えなさそうな避難の元に去ったのか。
良治と雛は学生の時に付き合い結婚の約束までしていましたが、雛が子宮がんになり、彼女はそれを隠して良治と別れたのでした。ふとしたことで再会し、それだけでなく別れた原因を知った良治はまた雛に惹かれるようになったのでした。このあたりの機微は名香子が主人公である以上、これ以上わかりません。ただ良治が雛を運命の女性と思っていた、あるいは思っているのはどうやら確かそうです。
ゆったりしている分、落とし所が難しいお作品ですね。事件は良治がほかの女のところに去ったということしか起こらない。それに伴い、名香子は学生時代に別れた(フラれた)男のことを思い出し、母親に相談して、父親もかつて女の元に去ってからしばらくして家に戻ってきたという過去を知らされます。しかし当然ですが、そのいずれも現在名香子が抱える問題を解決してくれるわけではない。良治の決意は明確です、いわゆる浮気相手の雛も淡々としています。しかし名香子の方はどうしていいかわからないんですね。
あらためて再生ボタンを押して、真理恵の生まれた瞬間の叫び声を聞く。
いきなりまったく未知の世界に素っ裸で飛び出してきて、真理恵はさぞや恐ろしく、心細かっただろう。むろん、彼女は生まれたくて生まれてきたわけではない。自然の摂理に従って、ただ生まれさせられてしまったのだ。
だが、それでも彼女はこんなに元気に声を上げている。自分がたったいま誕生したこと、この世界に存在し始めたことをこれほど強く大声で主張している。(中略)
――これは、なんと貴重な記録だろう。
――良治は、この産声をいつもどんな気持ちで聴いていたのだろう?
不意に目頭が熱くなって名香子はテープを止め、右の人差し指を目元へと持っていった。指先が濡れて、自分が涙ぐんでいることに初めて気づく。
同
離婚するかどうか決心がつかぬまま、それでも名香子は家の中に残された良治の荷物を処分します。業者に依頼したのですが、その中にマイクロカセットレコーダーがあった。業者にどうしますと言われ、名香子はとりあえず中の音声を確認します。テープには、良治が名香子の出産に立ち合い、一人娘の真理恵が生まれた瞬間の声が録音されていました。
この箇所が「我が産声を聞きに」の表題の理由ということになりますね。「この世界に存在し始めたことをこれほど強く大声で主張している」のは赤ん坊だった真理恵ですが、敷衍すれば良治のことということになるでしょうか。はっきりとした結末は描かれていませんが、名香子は良治の新たなスタートを黙認したとも受けとれます。
これは決して悪口ではありませんが、「我が産声を聞きに」というお作品は長くて単調ですわ。事件は一つしか起こらず、主人公名香子の心もあっちに行ったりこっちに行ったり定まらない。良治もその愛人の雛も悪い人ではない。良治と雛が住んでいる街に行く途中、名香子が自動車事故を起こしてそれなりの怪我を負うというエビソードや、名香子が溺愛していた猫の失踪、名香子の母親が熱中している俳句などの要素もスリップされていますが、どれも物語の決定打ではありません。つまり事件は起こるのですが曖昧なまま進み、曖昧なまま物語が膨れ、曖昧なまま終わる小説です。
世の中の動きが早まっていることもあって、ネット配信のプログラムなどでは、映画やドラマ冒頭のテロップを飛ばす機能が付いています。ちょい前に話題になった日本のテレビドラマ「あなたの番です」は展開が早く意外性があり、視聴者がSNSで熱心に犯人捜しをする、ある意味物語に参加するという現象も起こりました。
そういうこらえ性がなく、スピード感をどんどん増してゆく世界に「我が産声を聞きに」というお作品は逆行しています。それが作家様の意図的な物語作りなのか、単に物語を膨らませてこうなったのかはこの一作だけではわかりません。
ただ小説ではこういったまったりした流れの物語を楽しむ読者が一定数いらっしゃるんだと思います。一九七〇年代から八〇年代くらいのホームドラマのようなお作品と言っていいかと思います。そういった、ちょっと世の中の流れについてゆけない読者に喜ばれる作品を生み出すのも大衆文学の役割かもしれませんわね。
佐藤知恵子
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