岡野隆さんの詩誌時評『句誌』『月刊俳句界 2021年03月号』をアップしましたぁ。特集「いま、評論を読みたい!」が組まれていますが、岡野さんは、「ストレートに言うと、多くの俳人が俳論を読む必要はないと思っているところがあるんじゃなかろうか。(中略)俳句はデジカメに近いところがある。取り立てて専門知識がなくても俳句が詠めてしまう。じゃあ簡単に詠んだ句がレベルが低いのかというとそうとは限らない。俳句初心者の方が新鮮で斬新な句を詠むのはよくあることだ」と書いておられます。
秋櫻子以降、虚子「花鳥諷詠」論に対する反発は血気盛んな若手俳人の間で根強い。俳句は小さな器だが無限の可能性を秘めていることを様々な方法で創作・批評両面で明らかにしようとしてきた。しかし乱暴なことを言えばそのような試みはすべて失敗した。ムダだったと言っているわけではない。ただ虚子が説いたように俳句の基盤は「花鳥諷詠」にあり、なにをどうやってもそれは揺るがない。つまり自由詩のような徒手空拳の試みは俳句では必敗になる。「花鳥諷詠」を踏まえた新たな表現という難しく面倒な道しか実はないのである。
岡野隆
岡野さんが書いておられる通り、俳句の前衛的試みは〝形式〟と〝内容〟いずれか、または両方に揺さぶりをかけることで新しい表現を模索してきました。しかし大局的に言えばほぼそのすべての試みが失敗に終わった。。岡野さんの言うとおり、気がつけば俳壇という場所は「花鳥諷詠」、つまり写生中心の五七五に季語定型に戻ってくる。
じゃあ新しい俳句を模索する人たちはどうすればいいのか。まず俳句は「花鳥諷詠」=写生中心の五七五に季語定型だということを認めるんですね。そして且つ、そこに居直らないことですね。居直れば必ず俳壇も個々の俳句も衰弱してゆく。俳句の難しさはとても単純なところにある。単純だから難しい。
■ 岡野隆 詩誌時評『句誌』『月刊俳句界』特集「いま、評論を読みたい!」(2021年03月号) ■
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