鶴山裕司さんの『子規派作家論』『高浜虚子論 第01回』『河東碧梧桐論 第01回』をアップしましたぁ。不定期ですが鶴山さんの子規派作家論をアップしていきます。
俳句では有季定型が盤石の基盤ですが、それとは違う俳句の書き方(俳句形式)を選択している俳人も多い。で、短歌より77短く、よく言われるように最短形式の文学、というよりこれ以上短くすると意味が通りにくくなる五七五の俳句では、実にトリビアルな、部外者にとっては「どーでもええやん」といった細部にこだわる傾向があります。
もち石川は細部が大事ぢゃないと言っているわけではありません。しかし細部に視線が集中し過ぎると大局が見えなくなる。バランスが大事です。
最近ではさすがに少なくなりましたが、前衛志向の俳人が俳句界の大道である有季定型に物申す、物申さないにしても、それとは違うタイプの俳句を意識的に書くのはよくあることです。ほんじゃ、新しいタイプの俳句、その書き方が俳句の世界で他の多くの俳人を巻き込んでオーソライズされるのかというと、たいていそうならない。一過性の試みで終わる。つまり有季定型はいつまでも盤石であり続ける。
じゃ有季定型とは何か? それを突き詰めて考えなければ本当に新しいタイプの俳句は生まれないでしょうね。鶴山さんの虚子論は『有季定型写生は正しい』です。でも有季定型じゃなければ俳句ではない、有季定型俳句なら素晴らしいと言っているわけではない。有季定型という俳句の原理を考えている。子規や漱石と同様の原理主義ですね。
■ 鶴山裕司『有季定型写生は正しい』(子規派作家論①高浜虚子論 第01回) ■
■ 鶴山裕司『新傾向俳句から自由律俳句へ』(子規派作家論②河東碧梧桐論 第01回) ■
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