今号は第一〇〇回オール讀物新人賞発表号で、高瀬乃一先生の「をりをり よみ耽り」が受賞なさいました。おめでとうございます。時代小説での受賞でございます。
オール様の得意ジャンルは時代小説というイメージが強いですわね。実際、多い時は掲載小説の半分以上を時代小説が占めることがあります。時代小説作家を育ててゆくことが雑誌の明るい未来に繋がるということでもありますわね。
ただオール様の時代小説、素人のアテクシが読んでいてもステレオタイプ化しているところがありますわ。昔どなたかが「日本には時代小説があるからあんまりSF小説が流行らないんだ」と書いておられましたが、そういうところはあると思います。
日本の時代小説は日本人が抱いている夢と希望をダイレクトに表現するジャンルといった面があります。池波正太郎先生の時代小説は混乱した世相でも必ず必要とされる倫理、司馬遼太郎先生の場合は敗戦からの復興、藤沢周平先生の場合は豊かで選択肢多い時代の純情を描いていたようなところがござーます。つまり現代モノ小説では描きにくい抽象的観念を、夾雑物を取り除いてストレートに表現しやすい面が時代小説にはございます。SFとパラレルに語り得る要素が確かにあるわけです。
前にも書きましたが時代小説は圧倒的に江戸後期が舞台の連作小説がおおござーます。江戸後期は資料がたくさん残っていて、かつ強い自我意識を持った人間が現れた時期ですから舞台にしやすいんですね。ただ同じ時代設定、おなじみの登場人物で連作小説にするのが大衆時代小説の定番ですけど、圧倒的にかつてのような〝抽象観念〟が欠けているところがあります。
簡単に言いますと、時代小説の外側フレームはいつも同じようなものなんですけど、池波・司馬・藤沢先生の小説にあったような観念軸が希薄なんですね。いわば現代社会の本質につながるような観念軸を時代小説で捉え切れていない。だからチョンマゲや髷姿の男女が登場する単純な愛憎劇や謎解きになりやすい。
現代社会は非常に複雑になっていて、一つの観念で捉えにくくなっていますからこれはある程度は仕方がないことだと思います。ただ大衆小説はいわゆる大衆の欲望・希望・願望を見抜き、それを増幅して表現することで多くの読者を獲得しなければ意味のないジャンルですから現代社会の本質を把握するための努力は必要ね。大衆小説作家様は志を高く持たなければならないってことよ。
ひときわ強い風が吹き、隣の店に並んでいた古本がいっせいに丁をめくったのである。花びらは本に吸い込まれるように消えていく。
せんは年老いた店主を手伝い、ちらばった本を集めながら、そこで手にした一冊の本に手を止めた。
『源氏手鏡』
源氏物語の各巻の筋立てを、わかりやすく書いた古活字本だ。かなり年季の入った古本で、今にも破れて粉になってしまいそうだった。
迷うことなく手銭をきってそれを買った。
長屋にもどったせんは、昼夜をわすれて文字を書き写した。そして出来上がった書本の最後の丁に、作者や版元の署名をする。これを奥付というが、そこに並べるように自分の名を記した。
『和漢貸本 梅鉢屋』
それが、貸本屋せんのはじまりだった。
高瀬乃一「をりをり よみ耽り」
高瀬乃一先生の「をりをり よみ耽り」の主人公は貸本屋を営む〝せん〟という女性です。昭和三十年代頃まではまだまだ盛んで、今でも細々と営業している店もあるようですが、昔は本を有料で一定期間貸す貸本屋があったのですね。江戸時代には庶民にはなくてはならない商売でした。
江戸の貸本屋は版元が刷った正規の板本を買って貸し出すだけでなく、自分で筆写してコピーして、それを貸し出すことも行っていました。それゆえ今に至るまで、様々な時代の書物の、膨大な数の肉筆写本が残っているのですね。現代的に言えば海賊本ということになりますが、コピー機も印刷機もなかった時代ですからそうでもしなければとても読者需要に追いつけなかった。ただ呑気な商売かと言えば、そうでもない面はあったわけで。
「一線は越えないことだ。ぎりっぎりのところで商売しなくては、お客様に迷惑がかかってしまう。それはわかっているね」
ついさいきん、奉行所から厳しく指導された喜一郎である。自分を棚にあげてよくいうよと、せんは不平をくちにしかけたが、この世界で生き残っている年長者の意見は無視できない。
「うん。貸本屋の使命だろ?」
「わかっておればいい。おまえさんは戯作者じゃない。あくまで、本と読み手を繋ぐお仲人なのさ。それをわすれちゃあいけないよ」
「わかっている」
せんは帯に手を当てた。
同
せんは正規の板本を出している地本問屋(現代の出版社)・南場屋に貸本用の本の買い付けに行って、主人の喜一郎に説教されます。江戸はわたしたちが考えているより遙かにキッチリとした法治社会でしたが、やはり今とは違って、特に将軍様のお膝元の江戸では様々な形での規制が敷かれていました。幕府や侍を愚弄するような表現は御法度で、それが露見すると作者(戯作者)以下版元、貸本屋に至るまで厳しく処罰されることがあったのです。まあ貸本屋のほとんどが穏当な商売をしていたわけですが、中にはちょいと危ない禁書を扱う者たちもいた。せんはそういった気骨のある貸本屋として造形されています。
せんの気骨ある貸本業には背景があって、彼女の父親の平治は腕のいい彫職人でしたが禁書を手がけたことで罰せられ、版木を削られただけでなく、二度と彫仕事ができないように無残にも指を折られてしまったのでした。それ以降平治は酒浸りになり、せんが幼い頃に自殺して亡くなってしまった。その恨みがあるので、せんはあえて危ない禁書まで扱う貸本屋になったのです。
上手い伏線の張り方ですね。平治は自分が彫っているのが禁書だと知っていましたが、作者ではない。作者は誰で、なぜ平治はそんな危ない仕事を引き受けたのか、そして平治たちを告発(密告)したのは誰かという謎解きが生じているわけです。
背後から覆いかぶさってきた燕ノ舎は、筆ごとせんの手の甲を支えた。
「あたいに絵の勘はないよ」
「大丈夫さ。てめえが抱かれてる姿を、天からのぞくのさ。戯作者みてえによ。そしてどうすりゃあ、てめえが気持ちよくなるか考えるんだよ。いっぱしの濡れ場になる」
筆の先が、静かに余白におちた。
同
せんは珍本の所蔵者で、燕ノ舎という雅号の戯作者の元に出入りするうちに、燕ノ舎から絵の手ほどきを受けます。「をりをり よみ耽り」が連作になるとすれば、これは次作以降の伏線ということになります。また燕ノ舎はせんの父親・平治の処罰に深く関わっていますが、その謎解きは実際にお作品を読んでお楽しみください。
で、高瀬先生の「をりをり よみ耽り」がどんな抽象観念を持つお作品かといえば、それはせんの「あたいは裏道を歩きながら、螢の残り火を後に残すための仕事をしているんだ。本を貸すだけじゃない。守るんだよ」という言葉で表現されているでしょうね。
もうだいぶ前からですが、出版が明らかな不況産業になり、読者人口が急激に減り始めた頃から本や出版をテーマにした小説が増え始めています。それはそれで大事なテーマなのですが、なぜ本なのか、なぜ活字なのか、どうしてそれが必要不可欠なのかといったテーマの根本に食い込んだ作品は少ないように感じます。高瀬先生のご活躍に期待です。
佐藤知恵子
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