コロナ騒動で飲み会がなくなっちゃいましたわね。もち内緒でやってる同僚もいるんですが、知恵子様はそんなリスクを冒さずおとなしくお家でテレワークしております。AmazonやNetflixを見まくってますから、なんの役に立つかわかりませんけど、かつてないほど海外ドラマの情報なんかをゲットしておりますわよ。ただ生のリアル情報が入ってこないのはちょっと寂しいわねぇ。
アテクシは地獄耳でその上口が固いですから、会社関係のいろんな情報が入ってくるのよー。誰と誰が仲いいとか悪いとか、誰が出世したとか転職したとかといった情報は、リアルに役に立つことがありますわ。もちろん恋愛関係のゴシップも耳に入ってきます。それはそれで役立つことがありますけど、殿方の単純な女絡みの話はぜんっぜん面白くないわよ。だいたい中年以上の男が若い女の子にモテるわけないでしょーが。それはお金と地位と名誉をフル活用した、あるいはそれを利用しようとしてるこすっからい女に利用されてるだけのドンファン的モテ方よ。もち女に騙されたとかこっぴどくフラれたとかの話なら、「それでそれで」と知恵子様の血もだんぜん騒ぐわけです。でもたわいもないモテ話をされると「テメー地獄に落ちろ」と言いたくなりますですわぁ。
それに比べると女の子の恋愛話といいますか、恋愛相談は面白いわよー。知恵子様は耳年増でそれなりに恋愛経験といいますか男経験豊富でしかもオバサンというほぼ地上最強の哺乳類の一人ですから、けっこう恋愛相談されることが多いのですわ。こりゃ面白いという事案の場合、例「ヒロシ君問題」といった恋愛相談会を立ち上げて、最新情報を聞きながら議論する飲み会を定期開催したりしましたわ。分析会であって進路相談会ではござーませんことよ。どーするかなんてこたぁ最終的に本人が決めることで、端の人間が何言ってもムダよ。でも女の子の恋愛の場合、本人も、相談される側のアテクシも気づいていないことが議論しててわかることがあるのよね。
ものすごく単純に言えば、大人というより中年以上に差しかかった男の女話しはだいたいが性欲絡み。底が浅いわ。だけど女の子の場合は精神的な悩みというかモヤモヤね。んでたいていの場合、女の子に決定定的に欠けているのが社会性。女は男によって一定の社会性を得ることがあるわけ。男の方が子供の頃から社会的動物ですからね。つまり男によってある社会性を得ることができればその男は卒業ってことね。
七月十九日
びっくりした。今日、明希から打ち明けられた。結婚したい男性がいるのだという。しかも明希は妊娠しているのだという。
相手は木村さんという、職場の上司。(中略)まさか娘の恋人だなんて思いもしなかった。だって木村さんは中年だ。四十歳だと、今日、明希から教えられたが、二十五歳の娘より私たちの年齢のほうに近い。
いや、年齢よりもっと重要な問題がある。木村さんには奥さんがいるのだ。離婚の話し合いが進んでいるから大丈夫、と明希は言うけど、大丈夫なんてことがあるだろうか。(後略)
その気配はいやな感じだった。このひと月あまり、真由子はずっと感じていた。明希から打ち明けられて、ああ、そういうことだったのかと得心した。
それは女の生臭さというのか――娘が年頃になって以来、うっすら感じてきたものが濃く凝縮した気配だった。うすいときには、娘の成長の徴として面映くも喜ばしく思ったこともあったはずだが、今回のはただ、いやな感じだった。もちろん、そんな気分を決して娘に悟られないように気をつけていたが。
井上荒野「名前」
井上荒野先生の「名前」は真由子が主人公です。ときどきお使いになりますが、真由子の日記の引用と、真由子を主人公にした客観的な三人称一視点での叙述が交互に綴られる小説です。主観と客観の両面から小説を描くテクニックですわ。
真由子は娘の明希から職場の上司の木村と結婚したいということ、もう妊娠していることを打ち明けられます。明希は二十五歳ですが木村は四十歳で一回り以上も年上。しかも既婚者です。ただ木村と奥さんの間では離婚協議が進んでいて何も心配ないと明希は言います。
普通の小説なら遊び人の年上男に弄ばれた若い女の話になるでしょうが、そこは井上先生です。そんなありきたりな展開にはなりません。それは引用のシーンを読んでもわかりますわよね。
真由子は娘の明希に女の生臭さを感じ取ります。女性作家にしか書けないゾクゾクするような叙述ですわね。この生臭さはストレートに言えば、成熟し始めた女の身体を持ち、だけど精神的にはまだまだ未熟な女が発する臭いのようなものです。それは危うい。でも女なら一度は通過しなければならないような通過儀礼期の危うい臭いでもあります。うまくすり抜ける娘もいますし、そこで躓く娘もいる。明希は後者になりそうな気配です。別にそれで死ぬわけじゃないですけどね。
明希は母親の真由美にも、父親の祐一郎にも、年上で既婚者の木村と付き合っていて妊娠していると堂々と告げます。悪びれた様子はまったくない。それは、言ってみれば男の影響です。木村という男が既婚でありながら若い女と付き合い、しかも妊娠させてしまったことにまったく悪びれた感情を持っていないからそうなる。また木村と今の妻の間で離婚協議が進んでいるのも事実です。つまり明希が意識しないまま置かれている状況は年上男に弄ばれるより悪い。女にとって一番たちの悪い男は、いちいち本気で、しかしすぐに熱が冷める男ですからね。
「岡さん」
真由子は思わず呟いてしまった。頭の中で呼ぶことはよくあるが、口に出してしまうのは久しぶりだった。岡さんというのはかつての恋人の名前だ。まだ未練があるとか今でも好きだとかそういうことではない。(中略)岡さんはひどい男だった。都合よく真由子を使った――精神的にも肉体的にも。名前を呼ぶのは一種の癖だ。何か思い出したくないことを思い出してしまったとき、この名前で思考を遮断する。もう二度と会いたくないと思っている男の名前を、なぜか無意識に口にしてしまう。
「何?」
運転している明希が言った。(中略)
「なんでもない。ちょっと思い出したことがあって、口から出ちゃった」
あるね、そういうことと言って明希は笑った。はっきりと聞き取ったわけではないらしい。
同
岡は真由子のかつての恋人ですが、職場の上司でしかも既婚者でした。いわゆる不倫ですね。真由子は岡の子を妊娠しましたが岡から堕ろせと命じられ、言われるままに中絶した経験を持っていたのです。結婚して明希をもうけた夫の祐一郎は岡の部下でもありました。しかし祐一郎は真由子と岡の不倫関係を今に至るまで知りません。また真由子と別れた後の岡も、それを匂わすようなことは一切口にしませんでした。真由子と岡だけが知っている秘密なのです。
既婚者でありながら若い部下の女と付き合い、妊娠までさせて堕ろせと言うのはヒドイ仕打ちです。真由子は精神的にも肉体的にも傷ついた。しかし岡の身勝手な仕打ちには、倫理的には問題がありますがそれなりに筋が通っている。また別れてから口を閉ざしたことは解釈の余白を残します。岡が傲慢で心底身勝手な男という解釈も成り立ちますし、微かですが堕胎を機にキッパリ別れた真由子に対する愛情のカケラという解釈も成り立たないことはない。いずれにせよ傷は負いましたが真由子はこの手の恋愛から卒業したわけです。しかし娘の明希はどうか。男を卒業できない分、真由子より厄介な立場に置かれています。
この前は大人気なかったと言いながら、この前よりも今の木村の方が少年ぽかった。上司に話して、その先はどうなるか正直なところわからない、ふたりともでなくても、どちらかが辞めなければならないという話になったら、ふたりとも辞める、そして自分の郷里に帰って新しい仕事をはじめる、そこまで考えているのだと木村は簡潔に話した。
「子供はどうするの」
「どうするって?」
真顔で木村に聞き返されて、真由子は言葉に詰まった。
「・・・・・・ちゃんと育てられるの? あなたが言ってることは甘いわ」
「そうかな? 甘いとは、僕は思わない」
「もう、いいわ」
真由子は木村に背を向けた。(中略)涙が出てきて止まらなくなった。何の涙か真由子にはわからなかった。怒りなのか嫉妬なのか。悲しみなのか憧憬なのか。不安なのか後悔なのか。岡さん。岡さん。真由子は泣きながら呟いた。
同
うーん実にいいですわねぇ。園芸店に勤務している娘の恋人の木村に、取り立てて先が見通せるような能力があるとは思えない。またこの男、「そこまで考えている」とは言いましたが実は何も考えていない。雲をつかむような希望を抱えて若い恋人と二人でうっとりしているだけです。そんな夢などすぐに破れてしまうことを真由子は知っています。ただこの夢は確かに甘い。真由子が若い頃に浸った淡い夢でもあります。娘の明希は痛い目にあうでしょう。いつの日か真由子のように「木村さん、木村さん」と別れた男の名前を呟く日が来る。しかし真由子はこうなってしまえばそれを止めることはできないのをよく知っています。
井上先生のお作品は絶望小説であることが多いですが、この絶望は小説でしか味わえない甘美な絶望でございます。オール様に限らず井上先生のお作品が掲載されている雑誌を見つけたら必読よっ!。
佐藤知恵子
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