池田浩さんの『大学文芸誌時評』井上荒野「あたらしい日よけ」他(No.026 三田文學 2020年冬季号)をアップしましたぁ。池田さんは『ここ数年三田文學は評論に力を入れている。(中略)問題はその質である。三田文學編集部に柄谷行人シンパがいることが手に取るようにわかってしまう』と書いておられます。石川もそれは前々から感じていました。
もちそれは悪いことではないのですが、柄谷シンパの雑誌になってしまうのはマズイでしょうね。池田さんは柄谷批評のマジックについて、『柄谷さんの評論は哲学・心理学・社会学・遺伝子工学・文学などを自在に引用して書かれているが、引用箇所を取り除いてみると論理が一貫していない。引用を挟むたびに論理や論旨が変わり、あらぬ方向に連れて行かれてしまう。読者は「あれ?」とは感じる。空白や飛躍に気づくのだ。だから「言説の襞を伸ばしながら読む努力」や「飛んでいる箇所を埋めながら読む頭の体操を強いられる」』と批評しておられます。
柄谷さんの評論は面白いと言えば面白いのですが、若い頃にハシカにかかるように読み耽るための一過性の知恵熱評論のような気がするなぁ。思想に肉体性がない。戦後の批評家で思想家の名に値するのは吉本隆明さんだけだろうな。でもなぜこんなに柄谷さんがもて囃されるんでしょうか。
それについて池田さんは、柄谷さんの批評は『どんなに読んでも柄谷さんが何を言おうとしているのか、読者には絶対にわからないように書かれている。それは一種の〝創作〟である。柄谷さん自身はそのような手法で書いた評論によって、特権的批評家という立場を不動のものにした。それに続く批評家たちは、柄谷さんに倣って〝創作批評〟を書こうと悪銭苦闘している。小説や詩に従属し、創作よりも下位の文学と捉えられがちだった批評を、決して結論がなく読み解けない創作のような表現にして自己満足を得ようとしている』とも書いておられます。
しかしそういう評論を読むのは時間のムダだな。石川だって忙しい。堂々巡りのような批評に付き合っている時間はないです。ましてや創作批評なんてね。詩や小説を書きたいなら不安や恥をかなぐり捨てて真正面から書くべし。ジャンルの敷居は密入国みたいな方法では乗り越えられません。
■ 池田浩『大学文芸誌時評』井上荒野「あたらしい日よけ」他(No.026 三田文學 2020年冬季号) ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 第8回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
第08回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項です。詳細は以下のイラストをクリックしてご確認ください。
■ 金魚屋の本 ■