アテクシ学校の教科書を見るのが好きなのよ。甥っ子や姪っ子が進学すると、必ず「教科書見せて」って頼むのね。ほんで小生意気なティーンエイジャーになった姪っ子が「なんでも知ってる知恵者の伯母さん、この問題わかる?」と言って、意地悪そうな目つきでアテクシに挑戦してきたわけよ。
その問題は「日米和親条約、日露和親条約、日蘭和親条約、下田条約、日米修好通商条約を古い順番に並べなさい」(問題文は変えてあります)というものだったわ。どっかの大学の受験問題だと思うわ。ちゃんとお勉強した知恵子様が、なんなく正解を答えたのは言うまでもありませんことよ。小娘がアテクシに勝とうなんて百年早いのよっ。アテクシに足りないものは若さと美貌だけよっ!
だけどテストの解答は別として、幕末の外国との条約なんて杓子定規に覚えてもあんまり役に立たないわよね。「ペルリさんがおっきな黒船に乗ってどんぶらこと日本にやって来て、開国しろよーと圧力かけて日米の貿易条約ができて、それからはなし崩しにいろんな国と貿易条約結んで明治の文明開化!」で十分よ。有名大学の受験問題ってたちの悪いクイズみたいなものが多いけど、受験って効率よく合格者を絞るのが目的だとわかれば簡単に傾向と対策を把握できますわ。
学校の教科書はアテクシの時代よりずっとカラフルになって、お勉強のツールにタブレットやパソコンを使うようになったけど、学業の成果を検証するテストや受験は基本的にむかし通りね。文系と理科系っていう区分もむかし通り。基本的に暗記能力が重視されるわけですけど、そんな頭の良さはかなーり時代遅れになってきてるわね。
文学関連の時評ですから文学に即しますと、アテクシの若い頃は優秀な文学者は東大卒の方が多かったわ。夏目漱石、森鷗外両先生以来の伝統ね。でも1990年代くらいからグッとその比率が減ってきていますわね。東大卒の方が優秀じゃなくなったってわけではございませんわ。むかしながらの優秀さ、頭の良さが社会では必ずしも役に立たなくなってるのよ。
今の社会で一番重要なのは情報収集能力と分析能力よ。それは昔も同じですが、外国語ができるとか、いち早く外国の情報に触れられた一部のインテリの方が、情報収集&分析をしやすかったわけですわ。1930年代にシュルレアリスムとかの動きを把握していれば、この先世の中がどうなってゆくかおおよその想像はつきますわね。それに逆行する動きがあると、少なくとも頭から賛同する気にはなれないものよ。
そういう情報の収集と分析が今は誰にでも可能になっています。それがはっきりしてきたのは1990年代以降に、インターネットが完全に普及してからね。まずどんな情報を選択するのかで最初の優秀さが決まりますわ。間違った情報を選択すると、分析しても間違った方向にしか行かないからです。次に問われるのは情報の組み合わせ能力ね。情報を関連させてソリューションを見つけ出してゆく能力と言ってもいいわ。そんな情報系能力と記憶能力は別ね。タグさえ忘れなければ詳細情報は検索すればいいわけよ。いつの時代でも子どもたちの学力テストの方法は議論の的ですけど、記憶力中心のテストが社会に出てからの優秀さを保証するものでなくなりつつあるのは確かでござーます。
小説、特に大衆小説の時代モノではむかしから情報収集&分析能力が必要ですけど、それも変わってくるわね。杓子定規な武士モノ、町人モノ、遊女モノは飽きられ始めていますけど、突飛なアイディアがもて囃されるとは限りませんわね。
時代モノは現代的問題を先鋭に表現した一種のパラレルワールド小説でございます。史実に沿ってネタを探すより、情報収集&分析によって現代的問題を的確に把握する方が先ね。過去の風俗や人情を描くより、現代人が抱えている問題とその解消の方向性を探ることの方が遙かに難しいのよ。
しだっげよ。
涎でも垂らさんばかりに泥鰌に見入る祖母の姿に、良彦はあきれた。
そう言えば、以前、泥鰌をとってきたときも、多嘉子は上機嫌だった。いつもは寿子の料理にあれこれ文句を言うくせに、痺れていないほうの手で椀を抱えるように持って、さも満足げに泥鰌汁を啜っていた。
しかし、あれではまるで、かどわかした人間を前に、舌舐めずりしながら出刃を研ぐ山姥だ。
なんちゅう意地汚ねえ、婆だべ――。
不気味な笑みさえ浮かべて泥鰌に見惚れている多嘉子に、良彦は小さく首を横に振った。
(古内一絵「泥鰌」)
古内一絵先生の「泥鰌」の主人公は小学六年生の良彦です。時代設定は昭和二十二年秋、場所は宮城県。太平洋戦争が終わってからまだ二年目ですね。ただもう戦後民主主義は始まっていて、良彦の通っていた学校は国民学校からただの小学校に名前を変えました。新しい教科書はなく、黒塗りだらけです。天皇陛下の御真影を祀った建物も撤去されています。
家族構成は父母に祖母、それに兄と妹です。兄はもう川崎の工場で働いているので五人家族ですね。祖母の多嘉子は脳卒中で倒れたのですが、体が不自由になっても嫁(良彦の母)の寿子を下女のように扱うのをやめません。戦後民主主義社会になっても良彦の家では、あいかわらず戦前からの嫁いびりが続いているのです。
また多嘉子がきつく接するのは母の寿子だけではありません。良彦にも厳しい。兄や妹よりもわんぱくだからですが、不思議と田んぼで泥鰌を捕ってきた時だけは別なのです。泥だらけになって帰ってきても叱りません。
良彦の家は農家ですが、GHQの農地改革でたくさんあった小作地を失ってしまいました。都会ほどではないですが食料は十分でないので、良彦は泥鰌捕りに精を出しているのでした。小説のタイトルになっているように、なぜ厳しい多嘉子が良彦が泥鰌を捕ってきた時だけ優しいのか、泥鰌汁が好物なのかがこのお作品の最初の謎ですわ。
天狗を思わせる白髪の老人の肖像が、薄闇に浮かび上がる。兄の良治によれば、良彦たちの曾祖父、洪庵は奥羽越列藩同盟を結んだ仙台藩の下で、伊達政宗公の後裔慶邦を護り、「薩長なにするものぞ」と戊辰戦争に馳せ参じた烈士の一人だったという。(中略)
仙台烈士、洪庵の一人娘である多嘉子は、仙台の名門女学校を卒業した後、この美男のじじ様を婿に迎えた。ところがじじ様は、ある日突然、姿をくらましてしまったという。
洪庵が多嘉子に残した、遺産の大半を携えて――。(中略)
懐中電灯の薄明かりに照らし出されたじじ様の白い顔を、良彦はじっと見つめた。
(同)
「泥鰌」というお作品の二つ目のポイントは、謎であると同時に構造的なものです。良彦の曾祖父・洪庵は仙台藩士で、明治維新の際には官軍と闘った人でした。昔ながらの武士だったのですね。そして洪庵の孫で多嘉子の息子、つまり良彦の父親は東京の旧制中学で英語の先生をしていましたが、「日本は戦争に負ける。だから君たちは、戦争に行くべきではない」と生徒たちに説いて学校を辞めさせられました。
父親は宮城に帰らざるを得なくなりましたが、故郷でも非国民扱いで肩身の狭い生活でした。日本は敗戦し、父の言っていたことは正しかったと証明されたわけですが、それで彼の名誉が回復されるわけではありません。父は終戦後も書斎にこもって、家族の前にすらめったに姿を現しません。まだ戦中の傷が癒えていないのです。
タイプは違いますが、曾祖父も父も社会的な大義や思想に殉じた男たちです。そして良彦は社会的な大義や思想が大揺れに揺れた、戦前と戦後を知る子供です。彼には別の選択肢がある。それもまた思想かもしれませんが、杓子定規な大義であってはいけません。
「ばば様は賢いおなごだべ。園生さんを振り向かせようと、一世一代の作戦を立てただ」
ある晩、多嘉子は洪庵の残した遺産をかき集め、それを園生の前に差し出して告げた。
〝そんなに好きな人がいるなら、いっそ、この金を持って駆け落ちしろ〟と。(中略)
確かに園生は、多嘉子の手を両手で握りしめて大感激した。
「んだども園生さんは、本当にその金を持って駆け落ちしてしまったんだど」(中略)
「馬鹿でねが」
良彦は思わずこぼした。この話が本当なら、多嘉子は案外間抜けだ。
「女心が分がんねえ、園生さんも相当なもんだ」
寿子は顔を上気させて笑っている。
「お母さん、そっだら話、どこで聞いただ」
「ばば様本人から聞いたんだべ、本当に本当に内緒の話ちゃあ」
良彦は言葉を失った。
(同)
いよいよ食料が足りなくなって、良彦は母の寿子といっしょに大八車を引いて、小母さんの家に米をもらいに行きます。小母さんの家がどんな親戚筋なのか良彦は知りませんが、二人は歓待されます。寿子は酒を勧められて酔うのですが、そんな母を見るのも初めてのことです。そして酔って口が軽くなった母は、祖母・多嘉子と祖父・園生の秘密を良彦に話したのでした。
多嘉子は美男子だったという園生を婿に迎えますが、園生には好きな人がいた。貧しい実家を助けるのために婿入りしたのですが、多嘉子と結婚しても園生の気持ちは変わりません。それを知った多嘉子は園生に金を差し出して、「そんなに好きな人がいるならこの金で駆け落ちしろ」と言ったのでした。妻である多嘉子の一世一代の賭けでしたが、園生は本当に金を持って駆け落ちしてしまった。では多嘉子の賭けは失敗したのでしょうか。
謎解きとして見れば、お作品の焦点は小母さんの家がどんな親戚筋なのか、なぜ祖母の多嘉子は泥鰌が好きなのか、良彦以外で泥鰌捕りが上手かったのは誰なのか、ということになります。それは実際にお作品を読んで確かめていただければと思いますが、この小説の一番いいところは、「女心が分がんねえ、園生さんも相当なもんだ」と言って寿子が笑っているところですね。
寿子は園生が駆け落ちした顛末を、鬼婆のような姑の多嘉子の口から聞きました。その話をした時、多嘉子も笑っていたのでしょうか。お作品には書かれていませんが、笑っていなければ小説になりませんわね。女の世界は水のように地下で繋がっているところがあります。男が思想や大義で分断されているのと対照的ですが、どちらの要素も小説には必要なのよ。
佐藤知恵子
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