今号のオール様には「妖し 怪異短篇」の特集が組まれています。怪異譚の小説を書くのは案外難しいわよね。読んでてハッキリフィクションだとわかってしまう設定だと説得力がないのよ。書き手が本当に体験したという前提がなければ怖さは生じないわけですが、幽霊とか妖怪は実在しませんからね。
怪異譚に限りませんが、小説は作家様が作り出したフィクションです。リアリティは作家様が出来事を現実にあったことのように捉えたことから生じます。つまり作家様の内面、もっと言えば作家の心理状態が生み出したリアルの説得力ね。
そこにはこう書かれていた。
昭和94年
慌てて見直したが、確かにそう印刷されている。
これはどういうことだろう。
(恩田陸「昭和94年の横町」)
恩田陸先生の「昭和94年の横町」はファンタジーと怪異譚の中間小説ね。主人公の私は友達二人と中部地方の繁華街でお酒を飲んでいます。たまたま入った老舗居酒屋の壁に、日めくりカレンダーがかけてありました。私は日付の上に大きく「昭和94年」と印刷されているのに気づきます。昭和がまだ続いているとすると、今年で94年なのです。昭和の雰囲気のある居酒屋なのでさして気に留めませんでした。しかしまた昭和が現れます。
ほんの二十センチほどの隙間である。
ハッとさせられたのは、そこに華やかな色彩が見えたからだ。(中略)
それに、どの女も手にしている買い物カゴ。エコバッグでも、トートバッグでもなく、買い物カゴ。見覚えがある。子供の頃、母が手にしていた。どこの家でも使っていた大きな買い物カゴ。
信じられない、と思いつつも、私はその隙間から目を離せなかった。
今目にしているのは、「いつ」の光景なのだろう。
頭にそんな疑問が浮かんだ。同時にその答えも。
昔の。それこそ、昭和の高度成長期の。
(同)
私と友達は次の店を探して横町に入ります。そして横町を散策しながら、私はふと店の間からアーケードのある商店街を見ます。そのアーケードはさびれた地方都市のそれとは違って活気に溢れていました。それだけではありません。アーケードを行き交う人たちは、どう見ても昭和の、高度経済成長期の人たちだったのです。
いっしょに行動しているのに、友達二人は居酒屋で昭和94年のカレンダーを見ていません。横町から昭和の活気に溢れたアーケードも見ていない。私だけに見えるのです。「あれはいったい何だったのだろう」「恐ろしかったところから抜け出せて、安堵の気持ちが大半を占めていたが、どこかで残念に思う気持ち、後ろ髪を引かれる気持ちもあった」とあります。
理性的に考えれば、私が子供時代を過ごした昭和の風物へのノスタルジーが昭和94年の幻想を垣間見させたと言えます。ただなぜ私が昭和の風物にノスタルジーを感じるのか、幻影を見るほど執着しているのか、その理由は書かれていません。なぜなら「昭和94年の横町」は15枚ほどの短編だからです。
この枚数なら、考えようによっては気の迷いで済ませられるようなオチにするのが妥当です。恩田先生はキッチリそうなさっています。枚数によってはテーマを追いかけすぎないことも必要です。長く書いてゆくと〝理由〟が必要になるからです。
「そう言えば、この間、北陸の断崖絶壁から海に、笑顔で飛びおりた男の話は知ってますか?」
と聞いた。
「はい」
女が神妙な顔でうなずいた。
「私ね、あの男を知ってるんですよ。どうして飛びおりたのかもね」
周囲の何人かが、彼を見あげた。(中略)
「実はね、彼はね、おちたんじゃないんですよ」
男は声をひそめ、そして、驚いたような丸い目で私を見つめてから、周囲を見回した。(中略)
「彼はね、向こう側に行ったんです」
(松田幸緒「色物の芸人」)
松田幸緒先生の「色物の芸人」の主人公は、仕事で花巻まで行って、怪異譚の里・遠野を観光して新幹線で東京に帰る途中の私です。新幹線は満員で赤ん坊がぐずって泣いているという、あまり快適な状況ではありません。私は立ったままですが、せめて誰か母子に席をゆずってやらないかなと思います。するとツッと席を立って「お座りなさい」と言った男がいた。次の駅で降りるからとは言いましたが、まだだいぶ時間があります。それに男はどこか奇妙な感じで、座席に座った母親に話しかけます。席をゆずってもらった手前、母親はむげに男を無視できない。
男は自分は落語や漫才などに分類できない芸を寄席で披露する、色物の芸人だと自己紹介します。そしてどう考えてもその場にふさわしくない、東尋坊から飛びおり自殺した男の話を始めたのでした。大勢が見ている中、笑いながら飛びおりた男の話は、いっとき盛んにニュースで取り上げられました。男の遺体が見つからなかったことも、笑いながら飛びおりた謎をさらに深めたのです。
色物の芸人は、飛びおりた男は自殺したんじゃない、「向こう側に行ったんです」と言います。向こう側は生死を超えた領域を指すのでしょう。恩田先生の「昭和94年の横町」の主人公が異界を垣間見ただけなのに対して、「色物の芸人」で語られる男は実際に異界に行ってしまった。
男は私たちの顔をしばらく探るように見ていましたが、話しはじめました。
「じっと見るんだ。いいかい、じっと、なにも考えずにじっと見つめる。そこが通れるだろうか、とか、そのうしろになにがあるんだろうか、とか、そんなことを、なにも考えずに見るんだ。そうすると、天井でも、地面でも、壁でも、次第に、ゆらゆらと揺れはじめて、平面が、柔らかく溶け出すように変わりはじめる。そして、気づくと奥行きが現れている。そうしたら、もうあとはそのままなにも考えずに通り抜けるんだ」
「それだけ?」
「ああ、それだけさ」
「ほんとに?」
男はうなずきました。
「いいか、難しくみえることほど、実は簡単なんだ」
(同)
色物の芸人は飛びおりた男を知っていると言いましたが、芸人も飛びおり男もまだ中学生くらいだった四十年前に、たった一度会ったきりでした。縁日の日でまだ見世物小屋がある時代でした。飛びおり男は見世物小屋に惹かれているようでしたが、幼い妹を連れていることもあって入るのをためらっていました。タバコをふかす不良少年だった芸人は、いたずら心から男と妹を誘って小屋の裏口から中に入ったのです。
舞台では女が鶏の首を口で食いちぎるという残忍な芸を披露していました。二人とも衝撃を受けますが、小屋を出た途端、小屋を仕切る男たちに「こんな所から入っちゃだめだろう」と叱られます。ただ男たちは怯えた少年たちを見ると、「おじさんたちがな、おもしろいものを見せてやるからな」と言います。どうやら飛びおり男が連れた、幼い女の子を怖がらせたくないようでした。
男たちが見せてくれたのは布を使った芸でした。布を斜めにして、いかにも階段を上り下りしているように見せる芸です。スムーズに身体を伸び縮みさせれば階段を上り下りしているように見えるのです。しかし芸人と飛びおり男は、階段を上り下りする男の体が実際に地面の中にめりこんでいるのを見てしまいます。驚いてどうしてそんなことができるのかと聞いた二人に、男は「なにも考えずに見るんだ」「気づくと奥行きが現れている。そうしたら、もうあとはそのままなにも考えずに通り抜けるんだ」と言いました。
階段芸を披露してくれた男が言った、「難しくみえることほど、実は簡単なんだ」という言葉がこのお作品のテーマでしょうね。人間が本当に地面や壁をすり抜けることなどできません。しかし人間心理はそれを可能にします。現実には不可能でも、小説の世界の中での〝現実〟で起こり得る事柄のリアリティはそうやって生み出されます。
私は、あの夜、テントの中にいたのだ。
汗ばんだ兄の手をしっかりと握り、私は、井草八幡の、あの見世物小屋の中にいた。(中略)
いや、それはおかしい。
私に兄はいない。(中略)
「お兄さんと遊んだことがあるような気がする」
ずっと昔、母に言ったことがあった。
「一人っ子だから、そんなことを考えたんでしょ」(中略)
いったい、なにを考えているのか。
どうかしている。(中略)
あの芸人に、いや、もしかすると、駅前のあの醜いカッパにでも、まやかされたのか。
(同)
芸人が大宮あたりで降りたあと、私は自分は飛びおり男の妹で、芸人が語った怪異を実際に見たと思います。しかし私には兄はいない。戸籍にも私の名前しかないので早世した兄がいたわけでもない。でも兄がいたという記憶はあって、母親に「お兄さんと遊んだことがあるような気がする」と言ったこともあります。
「色物の芸人」でも、中学生だった芸人と飛びおり男が見た怪異はなんだったのか、飛びおり男は本当に「向こう側に行った」のか、なぜ私は自分には兄がいたと感じているのかの理由は書かれていません。しかし深層心理に一歩踏み込んだお作品ですわね。さらに理由を書き始めると、小説は長く複雑に、そして技術的にも思想的にも難易度を増します。
怪異譚はサラリと書き流すのが基本です。内実を追いかけて書き始めても、理詰めで探求すればかえって作品の魅力は失せます。怪異現象を起こすだけの作家の強烈な深層心理が凝固して、フィクション世界の現実として現れないと説得力がないのです。
佐藤知恵子
■ 恩田陸さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■