オール様が3・4月合併号をお出しになったのは、ちょっとショックよねぇ。ん~やっぱ雑誌が絶好調で売上堅調なら、合併号は出さないわね。オール様の版元は文藝春秋社で、文藝春秋社様は実質的に芥川賞と直木賞という、日本で一番有名な文学賞を主催しておられます。芥川賞の基盤になっているのは純文学誌「文學界」様で、芥川賞すべてが「文學界」掲載作品に授与されるわけではないですが、かなり高い確率で「文學界」系作家様に与えられることが多いわね。他社刊や他誌掲載小説に芥川賞が授与されても、ちょっと言いにくいですがバーター的にしばらく「文學界」に書くことが多いような気がします。作家として有名にしてもらったんだから当然よね。
で、芥川賞受賞作は総合誌「文藝春秋」に掲載されるのが決まりです。芥川賞という超有名賞ですから、すでに単行本が出版されていようと、「文學界」や他誌に掲載済みのお作品だろうと、受賞作を掲載した「文藝春秋」は売れますわ。これは芥川賞が長くても250枚くらいの中編だから可能なのよね。でも直木賞となるとそうはいきません。
直木賞は大衆文学に与えられる新人賞です。すでに大衆作家としてデビューしているプロ作家のための新人賞という位置付けで、オール様で発表されます。書き続けられること、本を売り続けられる面白い作品を書けることが受賞の基準になっていて、すでにベストセラー本を出している作家に与えられることも多いです。つまりお作品は長い。最低でも300枚、長編なら4、500枚の作品に授与されることがあります。この長さになると転載は難しいですわ。芥川賞のように一粒で二度美味しいっていうわけにはいきませんの。
オール様3・4月合併号は直木賞発表号ですが、当然受賞作は掲載されていません。おめでとう的なエッセイや選評、それにお作品の抜粋ですわ。合併号ということで通常号よりページ数は多いですが、これが売上につながっているのかどうかは疑問ですわねぇ。オール様には「文學界」あるいは「文藝春秋」様のような、絶対売れる芥川賞受賞号のようなイベントがないのよ。
アテクシだいぶ前に社命である雑誌の創刊ビジネスに関わったことがあるの。雑誌って作って撒いてが基本よね。アテクシが関わったのはビジネス誌でしたから、売上よりも広告収入を重視しましたけど、文芸誌では広告収入はあまり期待できないわね。雑誌の売上高が生命線にならざるを得ませんわ。
編集会議の末席に座っていると、まず示されるのが前月の売上よ。雑誌は一ヶ月単位とかになりますから、次号が出る時には前号の売上がほぼ固まっていますの。書店に撒かないと雑誌は売れないわけですが、たくさん撒けばいいってものではありません。なーんも考えずに大量に流通させると、当然返本率が上がります。つまり返本コストが利益を圧縮する。だからそれまでの売上を勘案して刷り部数が決まっていて、返本率もだいたい予想できる範囲で撒きます。これが上がるか下がるかが雑誌経営の要です。30パーセント超えたら危険水域ね。雑誌の売上部数で広告料の額も変わってきますから、やっぱ雑誌の実売部数は大事なのよ。
雑誌が増刷になると利益が増えますからお目出度いことです。問題は下がった時。つーか下がり続けることがあるわけね。そうすると取次から雑誌を撒く部数を減らしてくれ、なぜなら返本率が高いからそんなに撒いてもムダ、というお話が来ます。で、撒く部数を減らす。減らせばさらに売り上げが落ち返本率が上がる。どっかで巻き返しを狙わなきゃならないわけですが、悪循環にはまると難しいわね。
アテクシが関わった雑誌は営業マンが優秀で、雑誌の売上はそこそこだけど、広告収入でもってたわ。ビジネス誌も最近は厳しくなってますけど、雑誌の売上高より広告収入の方が遙かに多いって時代があったのよ。たまーに雑誌が増刷されると利益が減ったわね。だって増刷しても広告収入は大幅に増えないんですもの。
合併号ってちょっと読者を不安にさせますけど、オール様には頑張っていただきたいわ。みんなでもっとオール様を買うようにいたしましょう!
ようやくドアの鍵を開けると、小さな玄関が飛び込んできた。一晩誰もいなかったときのひんやりとした気配。薄く透けた仕切りのカーテン。室内の紺色のラグの上には昨日脱いだパジャマが落ちている。
後輩から台湾土産でもらった刺しゅう入りのピンクのスリッパを履いて、狭い台所に立ち、湯を沸かすと、全身の力が抜けていった。
この部屋はまるで、星の王子さまが地球に来る前にいた惑星のよう。
暖房を入れれば、ほんの五分で暖まる、私だけの小さな星。
(島本理生「かたとき」)
島本理生先生の「かたとき」は典型的なフェミニン小説です。読んでいてとても心地がいい。特に女性読者ならそうでしょうね。
主人公は大病院に看護師として勤務する寛子です。まだ二十代の若い女性ですが内面は老成しています。世間知的な意味での老成ではありません。女の視線で現実世界を相対化しているという意味での老成です。ですから他人から見れば落ち着いているとも、浮世離れした少女的感性を持つ女性だとも言えます。
寛子は看護学校を卒業して就職する際に、実家を離れて一人暮らしを始めます。選んだ場所は東京のど真ん中の代々木駅から近い古いマンションです。この部屋が「まるで、星の王子さまが地球に来る前にいた惑星」のように感じられるわけですが、もちろん現実は違います。寛子の内面が投影されています。その内面とは孤独です。
寛子は患者の老人が「今は私ね、娘夫婦とてんのうざいーる駅のマンションに住んでいるの」と言うのを聞いて、わざわざ休みの日に天王洲アイル駅に出かけてゆきます。カフェでお茶しながら寛子は「こんな眺めのところに住んでみたいかもしれない、と思った。そうしたら休日に道に迷うこともなく、テラスで川の流れていく先だけを見ているのに」と考えます。
寛子が都会の孤独を求め、その中でアノニマスになろうとしていることがわかります。代々木駅に近い繁華街のマンションは都会の孤独にはピッタリですが、川に近く賃料の高い高層マンションが建ち並ぶ天王洲アイルは、美しいとも殺伐としているとも言える場所です。その両方を寛子は求めている。残酷な現実は美しさを必要としているのです。
土橋くんがやって来るまで、室内の孤独はなんの濁りもなく、透き通った上澄みだけが美しく満ちていた。
でも彼がやってきたら、あっという間にその孤独はかき乱されて、わずかな残骸もちっとも愛おしいものじゃなく、ただの淋しい気配に変わりつつあった。
二人で笑って喋って緊張して眠った一晩だけで、私は前よりも、孤独のことがそんなに好きじゃなくなりかけていた。
(同)
寛子の部屋に入った男性は高校時代に仲良しグループの一人だった土橋君だけです。恋人ではありません。突然電話がかかってきて話しているうちに「家に遊びにおいでよ」ということになり、土橋はお菓子などが入ったコンビニの袋を抱えて寛子のマンションに来たのでした。
夜遅くなったので土橋を泊めてやることになりますが、「私が彼のためだけの布団を床に敷いたとき、土橋君はほんの一瞬だけ当てが外れたような顔をして、だけどすぐにありがとうと笑って、急にぎこちなく二人でおやすみなさいを言って、明かりを消した」とあります。もちろん男女の関係は生じません。翌朝土橋君は帰ってゆき、その後しばらくして彼からのメールや電話も途絶えてしまいます。
ただ土橋が家に泊まったことは、寛子の孤独をかき乱します。孤独の「透き通った上澄み」が「ただの淋しい気配」に変わってしまったように感じるのです。寛子の孤独が脆いものであり、いつかそれは打ち破られなければならないものであることが示唆されています。それでも寛子は今まで通りの日常に、自分だけの孤独に戻ってゆきます。孤独はひとりぼっちの寂しさということではなく、自足した世界でもあるからです。
幼い頃、父に理不尽に叱られたり、だれも味方してくれる人がいなかったときに、かならず見る夢があった。
私は薄暗い車の中で横になっている。心の中は、ひどく悲しいか、怒っているかのどちらかだ。そんな私の手を取るのはいつも同じ青年だった。髪が柔らかそうで、ずいぶんと年上のように見えたけれど、たぶん、今の私よりは若かったはずだ。笑うと無防備な男の子のように目が懐こくなって、表情が柔らかくなるんだった。
夢から覚めるといつも思っていた。あの人は誰なのだろう、と。
(同)
寛子はお正月にも実家に帰りません。父と不仲なのです。父は寛子が看護学校に行きたいと言うと「福祉の仕事なんて、ほかにはなにもできない人間がやるものだ。水商売といっしょだ」と罵倒しました。そのくせ「休みには帰ってきておじいちゃんとおばあちゃんの面倒見れるんだろ、おまえ慣れてるんだから」と言うのです。
父親の言葉は理不尽で傲慢ですが、父の言葉通りではないですが、寛子は父親に代表される社会の抑圧に正しい面があることに気づいています。しかし彼女はそれに反発し続けます。寛子が心の中に抱いている「いつも同じ青年」はイデア化された男性です。実在の男性というより、寛子が求める〝男性性〟が青年の姿として表れる。現実逃避でなないですね。寛子は自分の内面にあるイデアがいつか壊れることを十分予想しています。そして壊れてもイデアを持ち続けるだろうと予感している。
大衆小説は読んでいるうちはおんおん泣いて、鼻をチンしてティッシュを丸めてゴミ箱に捨てて、「あーつまんなかった」と言ってもいい小説です。なぜなら大衆小説は読者を泣かせ、感動させ、怖がらせるために書かれるからです。そしてその書き方はパターン化しています。パターン化されていなければ、大衆作家様は小説を大量生産できない。このパターンは男が作り出したというより、男性性と言うべき社会が生んだパターンです。
ですからパターン化された大衆小説を書く作家様は、性別が男であろうと女であろうと男性性に属しています。しかしそれをなし崩し的に壊す作家様もいらっしゃいます。島本先生の「かたとき」は、これだけきっちりきっぱりフェミニン小説を書けるのかとちょっと驚いてしまうようなお作品です。フェミニンな感覚を完全に相対化して捉えているわけで、この基盤があれば、どんな残酷な現実も描けるわけです。
佐藤知恵子
■ 島本理生さんの本 ■
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