アテクシこのところ、バケーションは三回に一回は台湾なのよ。すんごく居心地がいいのよねぇ。ちょっと鄙びた日本って感じ。それに台湾って、デザインセンスがすんごくいいわ。基本的には親日国ってところも安心できます。もち日本は日清戦争以来、先の戦争まで台湾様にも多大なご迷惑をおかけしたわけで、日本や日本人に対して複雑な感情をお持ちの方も大勢いらっしゃるでしょうけど、アテクシの経験では日本人だからということで、イヤな思いをしたことはございませんわ。
ビジネスで外国を訪問するなら目的がはっきりしていますから気になりませんが、バケーションなんかで海外に行くと、ぶっちゃけた話、親日国と反日国ではやっぱ居心地とか安心感が違うのよね。日本に限らず、どの国の人にとっても親○国、反○国があると思います。これは仕方がない。個人ではどうにもならないことでもあります。だから長期滞在する場合はもちろん、バケーションでも半月とか外国に滞在して街をふらふらする時は、やっぱ頭の片隅に親○反○を入れておいた方がいいですわ。リゾートに宿泊して、ホテル周辺ですべて済ますならどの国に行っても同じですけどね。
史康平が楽園の壺に入れようと主張した鳳梨酥屋も、楊天がぜったい入れなければならないと言い張った軍隊も、それなりに説得力がある。
カンのうちのパイナップルケーキは美味いし、もしもぼくたちが自主独立して壺のなかを平和に保ちたいのなら、たしかに軍隊もあったほうがいい。
それは認める。
ぼくの気に障ったのは、彼らが自分のうちの商売を壺にねじこんだからではなく、なんのためらいもなく紋身街を切り捨てようとしたことだ。ぼくが紋身街をごっそり壺に入れたいと言うと、ティエンとカンは競い合うようにして不平を鳴らした。
「べつにおまえんちの食堂を入れるなって言ってるわけじゃないじゃん」
「そうだよ、食堂は必要だよ」
「人間、食べなきゃいけないんだから。だから、食堂はいいんだ」
「でも、どう考えても刺青店なんていらないだろ?」
(東山彰良「小さな場所」)
東山彰良先生は台湾国籍ですが、日本語は完璧です。つーか並みの日本の作家様より遙かに上手い。「小さな場所」は紋身街で食堂を営む父母と暮らす小武少年(ぼく)を主人公とした連作小説です。紋身街はその名の通り刺青屋さんが軒を連ねた街で、ちょっといかがわしい。
ぼくと友だちのカンとティエンは、テレビで日本の小学生がタイムカプセルを作っているのを見て、自分たちでも作ろうとします。まず紙にタイムカプセルになる壺の断面図を描き、何を入れるか決めてゆくことにします。タイムカプセル(壺)のタイトルは「楊天、景健武、史康平の完全無欠なる楽園の壺」ですから、地上にある物や施設や人から選りすぐって、壺の中に楽園を作り出そうということです。
カンの家はパイナップルケーキ屋で、ティエンの父親は軍人です。二人はまずパイナップルケーキ屋と軍隊を壺の中に入れる。しかしぼくが紋身街を壺の中に入れようとすると、「どう考えても刺青店なんていらないだろ?」と強硬に反対したのです。ぼくはさまざまに抵抗しますが二人は聞き入れてくれない。しまいにぼくは、カンとティエンと喧嘩して仲違いしてしまいます。
家に帰って阿華に事情をぶちまけると、ちょうど珍珠奶茶を買いにきていたニン姐さんと猪小弟も腹を立ててティエンとカンを罵りまくった。
ニン姐さんは彼らのことを「法西斯」と呼んだ。どういう意味かはさっぱりだけど、その声には「強姦魔」とか「カンニング」と言うときの響きがあった。(中略)
「あいつら、ぼくのことを井の中の蛙って言ったんだ!」(中略)
ニン姐さんが舌打ちをした。
「いいか、小武、ちっぽけな世界を選ぶにしても、まずは広い世界を見てこなきゃなんねえんだ。いろいろ知らなきゃ、そもそもどこがいちばんかなんてわかんねえだろ?」
ぼくは阿華とニン姐さんにかわるがわる目をやった。ビッグボーイは顔を伏せていた。
「紋身街なんざくそみてえな場所さ」お客さんに奶茶のお釣りを手渡しながら、阿華はぼくの目を真っ直ぐ見て言った「なにが『されど空の深さを知る』だよ・・・・・・おまえんちの飯は美味いし、おまえの両親もいい人たちだ。でもな、こんなところで終わっちまうような生き方だけはすんな。わかったか?」
(同)
ぼくは紋身街で大人たちの間で日々揉まれています。紋身街に住む大人たちは一癖も二癖もある。極端に貧しいわけではなく犯罪者でもないのですが、社会の陰と陽を知り尽くしていてそれをどちらの方向からも眺められる。大人たちは壺の中の〝楽園〟から紋身街を排除してしまった僕の友だちたちを罵りますが、一方で「ちっぽけな世界を選ぶにしても、まずは広い世界を見てこなきゃなんねえんだ」「紋身街なんざくそみてえな場所さ」とも言います。また井の中の蛙という諺には続きがあって、日本人が「井の中の蛙大海を知らず、されど空の深さを知る」と言葉を付け加えたのだとも言います。
「小さな場所」という小説は、ちっぽけで重要な場所でもない紋身街に住むぼくを「井の中の蛙」として、さらにその外の広い世界、そして井戸の中から見る「空の深さ」を抉るようにして続いてゆきます。ぼくは学校の国語の授業で「わたしの街」という作文の宿題が出たのをきっかけに紋身街について書き始めます。いつしかそれは、海まで旅をするちっぽけな蛙の物語になってゆきます。それだけなら寓話小説ですが、東山先生はちゃんと別の物語展開も用意しておられます。
「おまえら、これをどう思う?」
そんなことを訊かれても、ぼくとティエンにはなんとも答えようがなかった。
「学校から帰ってきたら知らない婆さんがこうやって死んでたんだ」カンは彼のお祖母さんではないという老婆を指さしてわめいた。「いったいどうなってるんだとローズに訊いたけど、さっぱり要領を得ない。こっちが焦れば焦るほど、あの馬鹿女も喧嘩腰になってフィリピン語でわけのわからないことをわめき散らす。で、おまえらがまだ残っていたらと思って、おれはどにかく走って学校へ戻った」
ぼくとティエンとカンは、リビングの片隅にたたずんでいるお手伝いのローズを見やった。(中略)何が気にくわないのか、突然がなりたてた。死んだ婆さんを指さしながら突進してきて、車椅子を拡げて座面をバンバンたたき、それを押してリビングを一周した。(中略)
「祖母さんと車椅子で出かけたって行ってるんじゃないか?」ぼくは注意深くローズのジェスチュアを分析した。(中略)「どこか・・・・・・鳥がいて、ボクシングとも関係があるようなところに」
「どこだよ、それ?」カンとティエンがひとつの声で言った。
僕は肩をすくめた。
(同)
ぼくは紋身街を巡って、ついにティエンと取っ組み合いの喧嘩を始めてしまいます。そこにカンが飛び込んで来る。家に帰ったら、知らないお祖母さんが死んでいたと言うのです。確かにカンはお祖母さんと同居していますが、まったく知らないお祖母さんです。父親はパイナップルケーキの仕事で上海に行っていて留守。お祖母さんの面倒を見ていたのはフィリピン人お手伝いさんのローズですが、彼女は中国語がしゃべれない。
サスペンス小説ではないのでオチを明かしてしまいますと、お手伝いさんのローズがお祖母さんを連れて散歩に出て、同郷の、同じく車椅子のお祖母さんを連れたお手伝いさんと話し込んでいるうちに、お祖母さんを取り違えてしまったのです。
ただ紋身街を巡る僕と友だちとの対立、そこから生じた作文-井の中の蛙物語、そしてお祖母さん取り違え事件と、複数の物語が重層化して進んでゆくのが東山先生の小説の魅力です。物語展開が贅沢なのですね。そして一番魅力的なのは、混沌とした生き物のような紋身街の描き方(存在感)です。すべての物語は紋身街の潜在的な力から生じています。
紋身街の人たちはリベラルです。中華圏ではよくありますが、外国人客が多く中国語は発音しにくいことから、彼らはビッグボーイなどの英語名を持っています。それは名称だけでなく、彼らの生活がアメリカ的資本主義社会に深く根付いていることを示している。一方でメインチャイナの圧迫があり、台湾の人たちは自分たちの微妙な立場を理解しながら、多くの人がメインチャイナとのなんらかの交易で生活しています。社会には台湾人、高雄人のほか日本人を始めとする外国人が多く住んでいて、飛び交う言語も中国語、台湾語、日本語、英語と様々です。お手伝いさんはたいていフィリピン人ですからタガログ語も聞こえてくる。開かれているのに本質的には閉じているのが紋身街の姿です。
こういった紋身街の姿に日本の小説で一番近いのは中上健次の路地でしょうね。路地は関所などの物理的障害など何もなく、地続きで外の世界につながっています。外にもっと広くて楽しい世界があるよと誘ってもいる。しかし路地にはなにものにも代えがたい求心力と魅力がある。そこには人間存在の原点とでも言うべきコミュニティがあるのです。
アテクシ確か三田文學さんで、ちょっと前に台湾現代詩の特集を読んだのよ。正直な感想を言えば、古いなぁ、懐かしいなぁと思いましたわ。台湾の詩人の皆様、日本の戦後詩とか現代詩を含む、海外の二十世紀後半の戦後文学をお読みになって影響受けてるでしょ、というのが手に取るようにわかりましたわ。詩は多かれ少なかれ観念が先行する表現ですから社会が単純な方が書きやすいのよね。「おお台湾よ、僕はちっぽけなお前のために祈ろう」といったような詩が台湾ではまだ書けちゃうわけ。でも日本ではもうムリね。
高度情報化社会、高度資本主義社会に突入した国々では、もはや誰が敵なのか、誰が味方なのかわからなくなっています。世界はぐるぐると巡っていて、昨日の敵はすぐ味方になり、その逆もまた然り。つまり敵味方といった大上段のイデオロギーはもはや存在しないわけ。末端にいたるまで様々な要素が混交し合い、それが全体となってズルリと社会が動くのが高度情報化社会、高度資本主義社会の姿よ。それを一人の個人の知性や感性で捉えるのはとても難しいことですわ。先進国で詩人たちの作品の影響力が下がっているのはそのせいでもあります。
でも一方で、人間存在の原点とでも言うべきものは存在し続けていますわ。それが路地で紋身街だと思います。ここではありとあらゆる摩訶不思議なことが起こります。でもそれは善でも悪でもない。人間が存在する限り必ず起こる出来事であり、それはほとんど神話的な過去にまで繋がっています。東山先生の紋身街シリーズにはそういった原点にまで遡るような力があるのよ。東京の新宿ゴールデン街や田舎の路地を題材にしても、東山先生の紋身街のような小説はもう書けないでしょうね。
佐藤知恵子
■ 東山彰良さんの本 ■
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