鶴山裕司さんの新連載長篇詩『聖遠耳 Sei Onji』No.001、002をアップしましたぁ。金魚屋から『日本近代文学の言語像Ⅱ 夏目漱石論-現代文学の創出』を好評発売中の、鶴山裕司さんの長篇詩2,187行です。
鶴山さんは『力の詩篇』の総タイトルの元に『東方の書』と『国書』の2冊の詩集を刊行しておられます。この連作は3冊で完結するそうですが、戦後詩・現代詩的詩法を駆使した連作です。文学金魚では『羽沢』を連載していただきましたが、こちらは抒情詩です。で、今回の『聖遠耳 Sei Onji』は、『力の詩篇』とも『羽沢』のような抒情詩とも違う書き方です。
『No.001『聖遠耳 Sei Onji』について』にあるように、この長篇詩は今年(2019年)3月18日から26日まで、鶴山さんが慢性中耳炎の手術で入院した際に書かれた長篇詩です。従って石川の元には全原稿が届いています。それを毎月約200行ずつ掲載してゆきます。
2,000行を超える長篇詩を書くのは大変です。石川、正直8日間で2,000行書いたのは眉唾ぢゃないかと思いましたが、4月11日に原稿が届いたので、推敲を含め、3週間ほどで完成したようです。書き方はエズラ・パウンドの『キャントーズ』に近いですね。喩を多用するとマラルメの『骰子一擲』のように、そうとう頑張っても5、600行で力尽きます。西脇順三郎もそうですが、意図して1,000行を超えるような長篇詩を書くならある程度散文的な書き方をしなければならない。
『聖遠耳 Sei Onji』の真ん中あたりに「僕は渋谷のスクランブル交差点にいる/109の巨大な女が太陽を背に/僕を見下ろしている/大型ヴィジョンが桜の開花を伝える/もう誰も喩では納得しない/満足しない/現実の残酷に曝されなければならない」という詩行があります。この長編詩の特徴をとてもよく表した詩行です。
詩的雰囲気(アトモスフィア)をかもし出すために喩を多用する詩人は多いですが、〝詩的〟と〝詩〟はまったく違います。「雨ニモマケズ」(宮澤賢治)「悲しみはむきかけのりんご」(谷川俊太郎)「ホラホラ、これが僕の骨だ」(中原中也)「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎)とあげてゆけばきりがないですが、優れた詩は一般的通念に反して具体的でリアルです。わかりにくい暗喩を使っている作品は少ない。現代詩的な謎かけのような暗喩と『聖遠耳 Sei Onji』は無縁です。
詩は自由詩でありどんな書き方でもOKですが、喩を排すれば必然的に散文に近づいてゆくことになります。つまり〝詩的〟な衣を脱ぎ捨てることになるわけですが、だからこそ詩は何によって成立しているのかが問われることになります。詩とは何かを明確につかんでいなければ、つまり自信がなければ散文的な長篇詩は書けないのです。特に現代では、方向性を見失っている詩人ほど喩に頼って曖昧な〝詩的な詩〟を書く傾向があります。
また『聖遠耳 Sei Onji』のような長篇詩を書くには作家的な成熟が必要でしょうね。エズラ・パウンドが反米放送の嫌疑でピサの斜塔下の牢獄に収容されて『ピサ詩篇(ピサン・キャントーズ)』を書き始めたのは1945年、60歳の時です。何の資料もなく長篇詩を書くにはそのくらいの年齢になるまでに、詩人として技術的にも思想的にも完成されていなければならないでしょうね。小説や文芸評論も書くマルチジャンル作家としての経験が、『聖遠耳 Sei Onji』のような長篇詩をさらりと書ける余裕を鶴山さんに与えたのかもしれません。
■ 鶴山裕司 新連載長篇詩『聖遠耳 Sei Onji』(No.001) ■
■ 鶴山裕司 新連載長篇詩『聖遠耳 Sei Onji』(No.002) ■
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