鶴山裕司さんの連載文芸評論『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』『Ⅱ 子規小伝(三)』をアップしましたぁ。『日本近代文学の言語像Ⅱ 夏目漱石論-現代文学の創出』(近刊予定)に次ぐⅠの子規論先行アップです。子規が文壇に打って出ることを目論んだ小説『月の都』が失敗に終わり、俳句中心の文学記者として陸羯南の日本新聞に入社するまでです。
現代の中高生は石川などの世代に比べて文語体にアレルギーがあるようで、鷗外『舞姫』程度ですら『現代語訳はないんですか?』と先生に聞いたりするそうです。子規は明治20年代から30年代にかけて活動した文学者であり、初期の文章はほぼ文語体です。読みにくいと思いますが可能な限りルビを振ってもらっています。現代語訳にすると、やっぱり作品の特徴が失われますからね。子規程度の文語体なら慣れれば簡単に読めるようになります。
文芸批評は概して低調です。ポスト柄谷行人・蓮實重彦として、一九九〇年代頃にそれなりの数の文芸批評家が出ました。が、ほとんどが社会批評家へとシフトしてしまった。文芸批評では食えないし本も出ない、世間にアピールすることもできないということだと思います。
また柄谷・蓮實氏の批評は新鮮でしたが、文学作品をベースに自己の思想を主張するものでもありました。彼らの批評を読んで、たとえば漱石がどんな文学者であったのかを理解することはできません。読み終えると柄谷・蓮實氏の印象しか残らない。それが新鮮だった時期があり、影響を受けた若手批評家が批評を自己主張のツールにしていったわけです。ショートカットすれば文学作品をベースにする必要はなく、社会全般の動向を論じる社会批評の方が自分の思想を主張しやすい。
それからさらに時代が下って2000年代に入ると、文芸批評は加速度的に摩訶不思議になります。昔の現代詩の批評のように、はっきり言えば何が書かれているのかわからない批評になってしまった。漱石を論じるのにマルクスやデリダの影響を云々することはできませんが、批評家が自分が学習したありとあらゆる哲学的知識や文学的知識を並べ立てる批評が増えたのです。一般読者は完全にそっぽを向いていますが、奇妙に閉じた同業批評家集団が出来上がっています。
だけどそもそも小説のように俗な文学を読むのに哲学的知識をフル活用しなければならないはずがない。批評家は基本的に切れ者でなければなりませんが頭が悪い批評だなぁ。要するに子供っぽい。俺は私はバカじゃないって大声で主張しているような幼さが見え隠れします。それでは作家や読者より一段上の審級に立って文学のヴィジョンを示すことはできません。
もちろんこの状況は絶対に長くは続かない。文芸批評の基本は文学作品を的確に読み解く能力だからです。中途半端な文学読解能力と、中途半端な哲学的知識を持っている批評家はどちらのジャンルでもプロではない。文学専門のプロが現れればそれははっきりする。石川が鶴山さんの批評に期待していることには、文芸批評を本来の姿に戻すことも含まれます。
■ 鶴山裕司 連載文芸評論『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』『Ⅱ 子規小伝(三)』縦書版 ■
■ 鶴山裕司 連載文芸評論『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の原像』『Ⅱ 子規小伝(三)』横書版 ■
■ 第06回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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