鶴山裕司さんの文芸評論『No.001 原点が存在する-『伊勢物語』論(前編)』をアップしましたぁ。本にまとまるのはまだ先になりそうですが、『伊勢物語』論は古典だけでなく、現代作家、哲学者、写真家などを論じ、日本文化を多角的に検討する評論『東洋学ノススメ』シリーズの一つです。『無人島に一冊だけ持ってゆく本は?』という問いかけで始まっていますが、そこにすでに『伊勢物語』論の中心テーマが表現されているようです。
無人島にたった一人で一冊の本というのは、ある意味僕の人間としての尊厳を試す問いだと思う。太古の人類がしていたように僕は様々な道具を作るだろう。日々のささやかな楽しみも見出すに違いない。僕の最高の楽しみは書くことだから、頭の中で書き、そうしたければ木であれ石であれ、書ける土台に墨などを使って書くはずだ。ささやかでも〝創造〟を行っている限り僕は人間の尊厳を失わずにいられる。そういった僕に必要なのは決して自我意識と対立せず、むしろ自我意識を無限の想像界(創造界)へと誘ってくれるような本だ。つまり誰が書いたかわからない本がいい。
著者がはっきりしない本は古代に書かれた古典が多い。ただ僕は日本人で一神教徒でもないので『聖書』や『コーラン』は選ばない。『古事記』や『日本書紀』という神話史書、『万葉集』や『古今和歌集』といった詞華集もなにか違う。僕は厳しい現実とは違う生を、艶めかしく煌びやかで、それでいてうんと俗で具体的手触りを持つ別の生を希求するだろう。それは物語の形を取るはずだ。その一方で究極的な精神の救済である詩の絶唱を手放さないと思う。そういった創造の触媒になるような日本の古典はあるのだろうか。ある。『伊勢物語』である。
鶴山裕司
鶴山さんには当初金魚屋詩部門のアドバイザーをお願いしたのですが(今もそうか)、ぜんぜん今の詩壇の状況について書いてくださらない。『詩に短期的状況はない』といふのが鶴山さんの考えで、『そうはいっても状況論がないと困る』の石川と対立して、一時期ちょいとギクシャクしました。ただだんだん鶴山さんが何をしようとしているのかわかってきました。短歌俳句を含む詩は小説の基盤でもあり、鶴山さんはそれを原理的に明らかにしようとなさっている。状況論に興味を持てないわけだ。この方詩人ですが、仕事の幅は詩の枠組みを大きく超えています。
■ 鶴山裕司 文芸評論『No.001 原点が存在する-『伊勢物語』論(前編)』縦書版 ■
■ 鶴山裕司 文芸評論『No.001 原点が存在する-『伊勢物語』論(前編)』横書版 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■