大篠夏彦さんの文芸誌時評『文芸5誌』『No.120 前田司郎「愛が挟み撃ち」(文學界 2017年12月号)』をアップしましたぁ。大篠さんの文學界時評の3連投です。No.118では石原慎太郎「死線を超えて」と今村夏子「木になった亜沙」、No.119では板垣真任「大声の歴史」、No.120では前田司郎「愛が挟み撃ち」を取り上げておられます。
純文学小説って難しいです。テクニック的に言えば純文学作家が素晴らしく上手いわけではない。むしろ純文学業界にどっぷり首までつかると、小説の基本であるプロットさえ立てられなくなる。そういう訓練をまったく受けていないんですね。しっかりとした登場人物がいて事件が起こり、それが発展して解決されるのが小説=物語の基本ですが、それができない純文学作家がほとんどです。
じゃあ純文学作家は何をしているのか。これも簡単に言えば、小説=物語というクリシェを崩そうとしてると言っていいでしょうね。その意味で純文学は小説文学の前衛です。ただ小説=物語は強靱ですから、ちょっと揺さぶりをかけてくらいでは崩れない。それでも見所のある作品なら、できるだけ評価してゆこうというのが純文学業界の基本姿勢です。
ただもの凄い数が書かれている純文学作品の中で、どれが〝見所がある〟と評価するのか、その評価基準が昔から曖昧です。勢い恣意的に見えてしまう。もちろん純文学ブランドはありますから、それを体現する雑誌に作品が載ったり賞を受賞したりすれば、少なくとも当該作品だけは売れたりする。だけどたいてい後が続かない。数年経つと、そういえばあの作家、どうしてる?ということになりかねません。淡々と小説=物語を書いている大衆作家の方がしぶとくてコンスタントに本が売れていることが多いわけです。
純文学作家は、少なくとも組織を含む他者に頼り切って自分の作品を評価してもらおう、本を売ろうという他力本願的姿勢を捨てる方がいいですね。つまり本を出しても基本、何の後ろ盾もなく一定部数は売れる本を書くよう努力するということです。石川はサスペンスだから、ホラーだから、SFだから純文学ではないという思考方法に反対です。読んで面白い作品でも純文学になり得る。それは過去作品が証明しています。
ハリウッドスターのウォーレン・ベイティはドストエフスキーの『罪と罰』を読んで、「途中で犯人がわかっちゃったんだよね」と言ったそうですが、優れた純文学作品はいろんな読み方ができる。世界を見回してもロングセラーになっていない優れた純文学作品は存在しません。要するに純文学という概念は後付けで秀作はやっぱり読んでいて面白い作品なのです。
■ 大篠夏彦 文芸誌時評『文芸5誌』『No.120 前田司郎「愛が挟み撃ち」(文學界 2017年12月号)』 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■