オール様に限りませんが、最近芸能人の方が小説をお書きになることが増えていますわね。背景にはプロ作家の書く小説の売上が低下している状況がございます。以前は芸能人でも文筆が好きな方にエッセイや小説を依頼することがおおございましたが、今では出版社編集者が「小説を書きませんか」とかなり積極的にタレントさんらに営業をかけているようでございます。元々一般的な知名度がある方々ですから、それなりの小説に仕上がれば一定の売上が期待できるのは当然よね。
文章と絵は、上手い下手を問わなければ誰でも書ける(描ける)ものです。誰でも書ける(描ける)ということは、それに値段が付くには大きな付加価値が必要ってことよね。芸能人の場合は芸能界で必死になって積み上げてきた努力が付加価値になっているのは否めませんわ。ただ基本一点物で点数の少ない絵と、最低でも数千部は印刷される本ではちょっと質が違ってきますわね。絵の購買層は熱心なファンということになりますが、本はもう少しターゲット層が広いわね。つまりある芸能人に興味のない人をも惹き付ける〝質〟が問題になるってこと。
だから従来は絵の個展は開いても、小説を書く芸能人の方は少なかったですわ。簡単に言えば小説を書くのは敷居が高いと思われていたわけです。絵は感性で描けるけど小説は高い知性がないと書けないと漠然と考えられてきたってことよ。ここに来て芸能人の小説ブームが起こっているのは情報化時代と関係があるわね。様々な形で小説執筆のノウハウが流通していますわ。また社会情勢の大きな変化によって作家の知性がそんなに特殊で特権的なものではないと、多くの人が気づき始めたことも影響しているわね。作家が手の届く所にまで下りてきたのよ。
松本清張や有吉佐和子の戦後文学の時代、小説のテーマは社会全体の欲望や矛盾、願望と密接に関係していましたわね。多くの読者を魅了するには人々が抱えているけど押し隠していたり、はっきり表現できないモヤモヤを探り当て、分析して的確に表現する知性が必要でしたわ。でも今は人々の中に共通する社会的テーマが希薄よね。ある業界や事件の内幕が面白おかしく描かれていればそこそこ本が売れる時代よ。それに本の初版刷り部数が三千部いくかいかないかって時代でしょ。多くの版元は一万部売れれば十分よね。売上ポテンシャルを持っている芸能人の方に頼りがちになるのは当然ですわ。
ただこういう状況は作家にとっても芸能人にとってもぜんぜん悪いことじゃないわ。芸能人って大変なお仕事よね。人気なんてあてにならないわけですから、ご自分がお持ちになっているタレントを最大限に活かして絵とか小説を作り、話題作りをしていくのは当然のことだわ。プロ作家にとっては作品の質を見直すいい機会ね。
どの世界でもプロって〝アマチュアとは圧倒的な力の差がある玄人〟のことでしょ。小説家がアマチュアであるはずの芸能人に肩を並べられるなら、それは作家のプロフェッショナル度が低いってことよ。社会全体の共通関心事、つまり現代的テーマが見えにくいから、とりあえず面白おかしい作品を書いていればいいじゃダメよ。圧倒的な力の差を見せつけなきゃ。まあボブ・ディラン先生がノーベル賞を受賞したように、世界的に見てもプロとアマチュア文筆家の差がなくなっていて、プロ作家が圧倒的力を見せつけるのは難しくなってきていますけどね。
私は祖父が好きだ。穏やかで優しくて、にっこり笑うところも。そう思うと突然鼻の奥がつん、とした。あぁ、行きたくないな、という思いが返ってきてしまう。途端に涙が滲んでくる。私は祖母たちに見つからないよう、トーストの乗ったお皿を持ち上げて、堅苦しいニュース番組の方へ体ごと向けた。こうすれば一生懸命にニュースを見ているようにも見える。ふふん。一石二鳥だ。
(柊子「誕生日の雨傘」)
柊子、しゅうこ先生は女優、作詞家としてご活躍中です。「誕生日の雨傘」の主人公は中学二年生で十四歳の夏美です。父母は仕事で忙しくて留守がちで、二世帯住宅の祖父母と過ごすことが多いと設定されています。「あぁ、行きたくないな」とあることからわかるように、夏美は学校でイジメを受けています。
大衆小説では時代小説とサスペンス(探偵小説)、ホラーを除けば、現代モノでは恋愛(純愛だけでなく不倫等を含む)、イジメ、それに最近では介護が大きなテーマになっています。身も蓋もないことを言えば、重松清先生のイジメ小説が中学受験の定番問題になっていることからもわかるように、それほど新鮮なテーマではありません。ということはハードルが高い。これは柊子先生にとってもプロ作家の先生にとっても同じです。この読み慣れたテーマをどのレベルまで持って行くのかが問われるわけです。
言葉が出てこない。私は二人の足元をぼうっと見つめていた。今日のリサコの靴下は、ブランドものではなかったけれど、赤いリンゴのワンポイントが可愛かった。リサコと沙織が、交互にため息を声に出すかのように「あーあ」と繰り返す。そしてそう言いながら、水分を含んだ地面に向かって、持っていた傘の先をぐっ、ぐっとえぐるように刺した。その都度、傘の先に泥がついて茶色く染まっていくのを私は見ていた。
空がよりいっそう暗くなってきた。私はずっと黙っていたが、リサコと沙織は私に聞こえないように後ろを振り向きながら話をして、時には笑いあった。(中略)
何のために二人がここまで来たのか答えが分からないまま、私は頭の中で、今から発すると決めた言葉を繰り返し練習した。
(同)
夏美は学校に行くのが嫌で休んでしまいます。するとイジメをしている張本人のリサコと沙織が家まで訪ねてくる。「公園、来て」と二人に呼び出されるのですが、学校を休んだ夏美を心配して友達が来てくれたと思っている祖父母に、「苛められてるから行かない」とも言えない。迷いながら公園に行ってしまいます。
リサコと沙織が傘の先を無意味に土に突き刺す描写は、夏美をイジメるのにさほど深い理由がないことを示唆しています。また「リサコと沙織は私に聞こえないように後ろを振り向きながら話をして、時には笑いあった」という描写は、女性ならすぐわかる嫌らしいあの感覚ですね。男性でも女の子たちが自分をチラチラ見ながら、何か話してクスクス笑っているシーンに一度や二度は遭遇したことがあると思いますが。自我未分化というか、未必の故意として相互監視しながら集団的悪意を形作ってゆくのは女の子たちにはよくあることです。
この女の子たちの集団的無意識(悪意)をとことんまで描いたイジメ小説はあまりないと思います。ただ柊子先生のテーマはそこにはありません。夏美が「私は頭の中で、今から発すると決めた言葉を繰り返し練習した」とあるようにイジメの謎解きに向かいます。
「一緒におったら嫌でも気付くよ。視線の先が同じことくらい。あたしの気持ち知ってて、自分の気持ち隠してたんやろ。恋愛なんて、とか言って、おぼこいフリしてるだけやん。心の中では、自分の方が俊太と近いからってあたしのことバカにしてた?」
気持ちに蓋をすればするほど溢れてしまうのは、涙だけじゃない。リサコは全部気付いていたんだ。同じ人を好きになったことに。そしてそこから逃げている私に。
(同)
恋愛オチというか色恋オチですわね。これはこれでイジメ小説の一つの落としどころで、お作品もまとまったパッケージになっていますわ。でも物足りないわねぇ。
言っときますけどアテクシはないものねだりしてるわけじゃござーませんことよ。「誕生日の雨傘」には〝男〟が登場しません。主人公夏美のママは出てきますが、パパは最後まで不在です。祖父は穏やかで優しくて女性と同類と言っていいでしょうね。同級生の男の子たちも女の子の関係に割って入ってきません。夏美とリサコがともに俊太を好きだとしても、俊太の存在は希薄なのです。
これは柊子先生の興味が本質的に女性同士の関係にあることを示唆しています。女性同士の関係を描くには「誕生日の雨傘」は短すぎますけど、もっと人の心の底に届くような小説をお書きになれるポテンシャルをお持ちの作家様ね。
佐藤知恵子
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