アテクシ時代小説がだーいすきでございますけど、あまりにも史実とかけ離れたお話には食指が動かないのよねぇ。日本には時代小説があるからSFが今ひとつ盛り上がらないんだって書いておられた方がいらっしゃったけど、アテクシもそう思いますわぁ。筒井康隆先生をSFっていうカテゴリーに押し込めちゃうのはどうかなって思いますけど、実際のところ、先進テクノロジーに取材した先生のお作品は少ないですわね。筒井先生はブラックユーモアの大家でもいらっしゃいますけど、そういったお作品には人間の悪意や妬み・嫉みなんかを底の底まで見てやろうという、露悪的な私小説っぽいところがござーますわ。やっぱヨーロッパやアメリカなんかのSFとは質が違いますのよ。
アメリカは新しい国で、いまだに〝フロンティア・スピリッツ〟の伝統がありますわね。新しい技術なんかを臆することなく追求していこうっていう姿勢よ。ただそこにもアメリカの〝国情〟が反映されていると思いますわ。フィリップ・K・ディックはアメリカSF界の巨匠で純文学要素もふんだんに持つ作家ですけど、彼のテーマって究極的には〝アイデンティティの問題〟よね。わたしは誰なのか、どこから来て、どこに行くのかってことよ。それって移民の国アメリカのアイデンティティの問題でもあるわね。一口にSFって言っても、お国柄や民族宗教の影響を受けるのは当たり前のことよね。
日本の時代小説に、日本ならではのお国柄や民族性が反映されるのは当然ですわ。でもそこには時代小説でしか描けない〝枠〟が設定されている必要があると思いますの。舞台は昔だけど、時代の枠を外して主人公が活躍する小説にしちゃうと、メンタリティがやっぱり現代に近づいちゃうのよねぇ。現代的メンタリティって、単純に言うと自由意志万能ってことよ。努力次第で何にでもなれるし、なんでも達成できちゃうってこと。このメンタリティを得るためにわたしたちのご先祖様がすんごく努力してこられたのは確かですけど、あんまり自由意志を尊重し過ぎると、世の中暮らしにくくなるわねぇ。
自由意志を発揮して、政治家であれ実業家であれ、功成り名を遂げて権力や財力を得たとします。権力・財力を得るってことは、人から干渉されにくくなるってことでもあります。だけど何をしてもいいってわけじゃありませんわね。でも人間の自由意志より大事な枠組みって、なかなか説明しづらいものです。もちろん好き勝手に生きる道もありますけど、もし生きる指針みたいなものが必要になったとしても、最後のところ、力を持ってしまった人それぞれが自分で見つけるしかないわね。時代小説がほんのり示唆しているのは、そういった人間の自由意志を超えた枠組みだと思いますの。貧乏人から為政者までそんな〝公〟の意識を持ってるなんて、浮世離れした偽善かもしれませんけど、それが理想であるのも確かね。
幸松殿は、水争いは初めてでしたか。水がなくなったわけではありませぬ。水争いというのは、水田に流す用水をめぐる村同士の争いのことです。
父・正光は今年十三歳になる幸松丸を、幸松殿と読んだ。高遠城主の保科正光が養父となった六年前から、母のおしづと共に、高遠城で暮らしてきた。
「田んぼの水・・・・・・」
「そう。村々に分け隔てなく水を行き渡らせるのは、それほど簡単ではないのです。時に争いが起きます」
(佐藤巖太郎「所払い」)
佐藤巖太郎先生の「所払い」は実在した信濃国南部の高遠藩が舞台です。主人公は藩主保科正光の養子幸松丸です。時代は関ヶ原の戦いからそう遠くない江戸の最初期。家康は隠居して二代将軍秀忠の御代です。この江戸初期という時代背景には自ずから枠組みがあります。まだ戦国の世の殺伐とした世相が残っています。一方で戦いが終わり、誰もが平和な世の中を希求しています。容赦のない大名家のお取り潰しや改易、それに島原の乱などまだまだ事の多い時代ですが、はっきりと太平の世を目指す法整備などが始まっているのです。巖太郎先生の「所払い」は時代に取り残された戦国的心性を持つ者のお話ではなく、新たな平和な世の中を実現しようとする為政者たちの物語ですわ。
高遠藩は山がちで起伏の多い土地なので、少ない田を潤すために、堰を作って水を満遍なく配分していました。その堰が壊れて上流にしか水が流れなくなってしまった。藩主正光の弟で家老の正近は、頑丈に作ったはずなのに、簡単に堰が崩れるとはいぶかしいと首をひねります。幸松は養父正光からその経緯を聞いて、自分の目で何が起こったのか確かめようと思い立ちます。
「所払いでござる」
民部(家老の正近)はそう言った。
所払い――。藩領からの追放を意味する。与左衛門は、湧き水の涸れた村を河水で潤し、村人の身代わりになって土地を失い、故郷を追われる。(中略)
「父上はご納得しているのですか」(中略)
「殿は、与左衛門が無宿人とならないように、松代藩宛の書状を持たせたそうです」(中略)
頭の中の靄が晴れた。幸松丸は、はからずも保科らしさの神髄を目の当たりにした気がした。
最後に民部は言った。
「幸松殿におかれましては、殿の執政をよくご覧になることです。さすればわざわざ高遠にお越しになった甲斐があったということになりましょう」
(同)
幸松の活躍で堰の崩壊は自然災害ではなく、上流の村の者たちの仕業だと判明します。元々上流の村には湧き水が出ていて、そのため河の水の配分が少なかったのです。が、命綱の湧き水が涸れてしまった。年貢が納められず咎を受けるくらいなら、堰を壊して自分たちの田に水を、と考えたのでした。
村の男総出でなければ堰は壊せませんが、犯人として名乗り出たのは村長格の与左衛門一人でした。与左衛門は追放(所払い)となり松代藩預かりになりますが、藩主正光は松代藩宛の書状を持たせてやります。寛大な処置ですね。犯罪者や謀反人を死罪に処すのではなく、有為の人は生かして活用しようという江戸初期の政治風土の表れです。ただ「所払い」には水争いと平行してもう一つの物語があります。
槍の穂先が雛をかすめた。外側にそれた槍穂は、空を突いただけだった。
その勢いで、かっこうの雛が巣から外へ飛び出した。
落ちるのかと思ったが、その雛は羽をばたつかせると、別の木に飛び移った。(中略)次の刹那にはもう飛び立っていった。(中略)
飛んでいったかっこうが見えなくなると、幸松丸は自分も木から飛び降りた。そこへおすずが近寄ってくる。
「かっこうだけうまく追い払いましたね」(中略)
「いや。狙ったがはずしたんだ」
おすずを見返した。それから背を向けて遠ざかった。
(同)
高遠に来る道中で供の者たちの四方山話から、幸松丸は城主保科正光には自分より先に養子にするつもりの者がいたことを知ります。急ぎ使者を立てて問い合わせますが、正光の返事はそのような者はいないというものでした。しかし高遠で暮らし始めると、先に養子になるはずだった侍――真田左源太のことを知らぬ者はいません。幸松丸と左源太の関係は気まずいものになりますが、水争いの調査をしている際に、あるお寺の境内で幸松丸は左源太とその妹のすずに出くわしたのでした。
二人は鳥の巣を見上げて話をしていました。郭公が托卵――ホオジロなどの巣に卵を産んで親鳥に育てさせること――していた巣です。卵から孵ると郭公の雛は、他の雛を蹴落として殺してしまうことが多いのですが、その巣には元の鳥の雛と大きな身体をした郭公の雛が仲良く並んで親鳥から餌をもらっていました。
幸松丸は兄妹の会話に加わり、すずと「卵を産み落とされる鳥が、かわいそうよ」「さあ。何か意味があるのかも」と言い争います。左源太は二人の会話を聞いて、「幸松殿は、よい殿になりそうだ」「武田家も真田家も、詭道を好んで用いたのだ。詭道も強さのうちだろう。強いものが勝つ。鳥も同じだ。それだけのことだ」と言います。左源太の言葉には、現実を受けとめながら、後から来た幸松に養子の座を奪われた無念がにじみます。
ですから槍で郭公の雛を突き殺そうとする幸松丸の姿には、微かな自己処罰の意図があります。しかし槍は逸れ、郭公の雛だけを巣から追い出すことになります。しかも郭公はすでに成鳥になっていたので、枝に止まるとどこかへ飛び立ってしまった。幸松丸と左源太は相争うことなく、それぞれの分を弁えて生きてゆくことが示唆されていますね。
小説には書かれていませんが、この結末には幸松丸が二代将軍秀忠の庶子であり、正室を憚った秀忠が保科正光の養子としたという史実が反映されています。当時将軍家庶子を養子に迎えることは藩主保科正光にとって大変な名誉であり、絶対服従の命令でもありました。逆らうことなどできません。いわんや一介の武士、左源太をやです。
ただ現代でも理不尽とも思えるような出来事や処遇はたくさんあります。それと戦う道もあるわけですが、一方でそう簡単には変えられない世の中を受け入れ、自らの居場所を見つけて社会に貢献してゆく道もあります。佐藤巖太郎先生の「所払い」は若い人には受け入れがたいかもしれませんが、人生経験を積んだ読者には訴えかけるものが多いでしょうね。すべてを語り尽くさず含みを持たせて終わるお作品です。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■