たまーに昔の同級生に会うと、「部長になったんだ」「○○の役員でね」といふ話を聞くやうな年にアテクシもなっちゃいましたわ。だけどアテクシオバサンでちょいと意地悪ですから、会社で暇な時にデータベース駆使して調査しちゃったりするのよ。「ん~子会社の役員ってことかぁ」とかモニタに呟いたりするわけね。以前社長になったっていう風の噂聞いて、「中小とはいえなんであいつがぁ」と頭の中にキーボード壊れた時のように?が三千個くらい並びましたが、M&Aかけられて吸収された会社でしたわね。「つなぎ社長かぁ、それなら納得ね」と思ったのでした。ま、同級生とはいえ卒業してもう何十年も経ってるわけですから、人事情報はそれなりにアテクシの仕事に必要なのよ。
サラリーマンに限りませんが、ある業界に長いこと身を置いていると、そこが世界そのものになっていくのは自然よね。お受験といっしょで、壮年期までは出世競争から逃れられないわけ。釣りバカの浜ちゃんみたいに早々に出世競争からリタイアして趣味に生きる道もござーますけど、釣りバカはどう見たって昭和四、五十年くらいのお話よね。今の社会情勢だと公務員や社団法人職員ぢゃない限りいずれ首切られるわ。人間ってその社会的ポジションによって考え方が変わるものなのよ。中には本当に不当人事や解雇もあるでしょうけど、社員の実績によっては最悪解雇ってことだってあるわ。大企業がリストラすると、他社でもやっていける社員が真っ先に手を上げがちってのもホントのことよ。
長いこと文芸誌をうたうた読んでると、文学の世界にだって一般企業と同じようなセオリーはあるわね。たいていは新人賞授賞してデビューするわけですけど、どんどん作品が載るセンセと、たまーにしか載らないセンセがいるのは当然のことね。ほんの一握りのセンセだけがコンスタントに本が出る売れっ子になってくわけ。その確率、五パーセントを切るわ。新人賞もらうのは嬉しいでしょうけど、すぐ次のフェーズに切り替えられる人じゃないと生き残れないわね。どんな世界だっていっしょだけど、ラッキーで授賞できた、入社できたって人はいるのよ。
それにまあ新人賞授賞作品を読めば、その作家が持ってるポテンシャルはだいたい予想できるわね。赤本とか入社面接ノウハウ本って山ほど出てるでしょ。ちょっと乱暴な言い方すると、人様のリソース使って個人利益得ようとすれば、傾向と対策練るのは当然よ。だけどあんまり型にはまってると、「完璧なんだけどなんだかな~」になっちゃうわけ。会社の面接試験とおんなじね。選ぶ側はハードルクリアしてる上にポテンシャルを感じられる人を選びたいわけですけど、そんな人、なかなかいないわ。もち突拍子もない人は面接の会話は楽しめても選んだりしないわけですから、いい人材がいなければ無難な所に落ち着くわ。ラッキー入社ってそういうことよ。
西洋の見慣れない形をした大きな鏡の中から、白い布を掛けられた色白で鼻が高い男がこちらを見ている。その背後で、四十男がちょろちょろと動いている。
「いかがですか?」
四十男が朗らかに聞いてきた。鏡介は初めての散髪に抱いた感想を素直に言葉にした。
「藺草の束を真剣で切るような、不思議な心地よさがあります」
髪を切る音は、かつて剣術修行で切りに切った藺草や藁、畳の音に似ていた。
「ははあ・・・・・・」
男はわかったような、わからないような曖昧な返事をした。
(三本雅彦「新芽」)
三本雅彦先生の「新芽」は第97回オール讀物新人賞授賞作品でございます。時代設定は御維新から間もない明治初期、主人公は相模湾に面した小藩・釜形藩の元武士で、まだ若い涌井鏡介です。ちなみに釜形藩は実存しません。場所から言えば天領ね。つまりこのお作品は史実に沿ったものではなく、明治初期の世相を使った小説ということです。
鏡介は髷を切って初めてザンギリ頭にします。藩政時代は近習組だったとありますから、主君の側近く仕えたそれなりに由緒とプライドのある元武士ですが、維新後の世を生き抜く決意を固めて散髪処にやって来たわけです。もはや無用になった武士のプライドを捨てるということですね。鏡介は散髪しながら、散髪処の主人のハサミの使い方がどこか剣術に似ていると思います。まだ散髪処が少なかったこともあり、鏡介は唐突ですが主人の立田に弟子入りを申し出ます。立田が快く鏡介を引き受けたところから物語が動き出します。
「鏡介」
直之進は奥歯をかみしめている。(中略)こちらの目を真っ直ぐ見つめながら言った。
「三年ほど前の冬、鳥羽伏見で戦が起きたころの、釜形の政争。あの日、俺の父は死んだ。何者かに斬られたそうだ。その日のことを、お主は何か知っているか?」
瞬間、鏡介の脳裏に真紅と漆黒、そして白い閃光が浮かんで消えた。(中略)
「いや・・・・・・」
口ごもると直之進が顔を逸らした。ふっ、と胸苦しさが和らぐのを感じた。
「武士としてやり残したことがある、と言っていたな」(中略)
「それは、もしや・・・・・・」(中略)
はたして、旧友は予想と同じことを低く、抑揚のない声で言うのであった。
「父の仇を討つ。仇討ちは武家の掟で、孝行だからだ」
(同)
立田の散髪処で働き始めた鏡介の元に、親友だった直之進が訪ねて来ます。ザンギリ頭にするのではなく総髪を整えるためとありますから、まだ幕藩時代を生きている青年ですね。近習組の中では鏡介と一二を争う剣の使い手だったとあります。ただ直之進は釜形藩の政争を嫌い、脱藩して榎本武揚らの旧幕軍に従って五稜郭まで行きました。武士として死地を求めてさまよった青年ですが、討ち死にできずに戻ってきた。幕府立て直しの夢が破れた直之進の今の生きがいは父の仇を討つことです。彼の父は釜形の政争に巻き込まれて命を落としたのでした。もちろん斬ったのは鏡介です。直之進も実はそれを知っている。
ただ旧幕時代の武士の仇討ちは、藩と幕府の許可がなければ行えませんでした。許可がないと単に私怨をぶつけたことになり殺人罪になります。武士の根本は兵隊ですから私情や理非を捨てて直属上司の命令に粛々と従う。わたくしごとの喧嘩とお互いの〝大義〟がぶつかった場合では人死にが出ても解釈が違ってくる。対立する大義で命を落とした場合は基本仇討ちは認められません。私情が絡まる理不尽な殺人の場合に仇討ちが可能になるわけです。だいたい仇討ちというのは殺した方に非があって、逃げちゃったというのが前提ですからね。
直之進はそんなことは重々承知の上で私怨を晴らそうと燃えているのでしょう。鏡介もそれを理解している、と解釈しましょう。だから当然二人は果たし合いをします。チャンバラは時代小説の華ですからね。
「鏡介、おまえ、妻子がいるのか?」(中略)
「なぜそのことをもっと早く教えなかったのだ!」(中略)
「仇討ちなどやめだ!」
「当然だ! 友を討つだけでも心苦しいというのに、その上、貴様の妻子に仇と狙われ刃を向け合うなんてことになってみろ、堪ったものではない」
直之進は苦虫を噛み潰したような顔をして、懐から手拭いを取り出し、右肘に当てた。立田が傍に来て、上腕をきつく縛って血止めをしはじめた。
(同)
鏡介と直之進は真剣勝負をするのですが、そこに散髪処の主人立田がやってきて、鏡介の妻が産気づいた、仇討ちなどやっている場合ではないと止めます。直之進は即座に剣を捨てて、「貴様の妻子に仇と狙われ刃を向け合うなんてことになってみろ、堪ったものではない」と言います。そそ、そうなのよとオバサンは突っ込みを入れたくなりますわ。仇討ちが許可制だったのは、ほかならぬ直之進が言った無限悪循環を防ぐためです。討たれる側、つまり仇討ちの対象として死刑宣告を受けた側の親族も、仕方がないと納得できる理由がなければ仇討ちはできなかったのよ。当然よね。
ただこれはないものねだりね。三本先生が「新芽」で描きたかったのはヒューマニズムだと思います。大衆小説には必須の要素ね。善男善女の読者が安心できる落としどころが大衆小説には必要なの。だけどそれって俳句のようなものよ。五七五の型にはめ込めば俳句ができるように、大衆小説的クリシェに沿えばお作品はできますわ。またそういう作家様はたくさんいらっしゃるので生き残るのは大変よ。作家の独自性を打ち出すにはさらなる仕掛けが必要になります。新人賞で大喜びしてるヒマはないわね。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■