鶴山裕司さんの連載エセー『言葉と骨董』『第052回 奥州平泉中尊寺金色堂壁之金箔(全4回)』をアップしましたぁ。三浦乾也という元旗本で、酒井抱一経由で江戸で(尾形)乾山六世を継承した文人陶工が、明治十二年(1879年)に岩手県の中尊寺金色堂で採集した金箔付き漆片について書いておられます。中尊寺金色堂は国宝なので乾也採集の漆片は国宝の一部ということになります。で乾也採集の漆片は柏木貨一郎所蔵となり、さらに益田鈍翁所蔵となった。んで鶴山さんの筆は明治初期の正倉院御物流出へと進んでゆく….。
鶴山さんが持っている『最高の骨董の一つ』が吹けば飛ぶよな漆のカケラとは、スゴイというか呆れるといふか。もっと高価な名品を持っている人はたくさんいますが、こういったほんとにささやかで小さな骨董の魅力を見出して、パッと50枚書けるのは鶴山さんくらいだろうなぁ。つーか鶴山さんが書くと塵芥的骨董でも魅力的になるのかな。骨董の世界では美術商やコレクターが持っている特殊な目の力を〝目筋(めすじ)〟と言ったりしますが、鶴山さんの目筋は尋常ぢゃない。
情報化社会によって言説が飽和しているのは美術界も同じです。誰でもお金を出せばちょっとした美術品は買える。物に関する情報も簡単に入手できるようになりました。ネットで検索すりゃたいていの情報は手に入る。物書きが骨董をいじり回してなんだか特権的なつもりで「この味がたまんない」と言って済ませていられた時代は終わったのです。また現代美術批評の世界でも知識と専門用語で読者を幻惑できる時代ではない。簡単に言えば読んでもらえない。読者はある〝本質〟に迫っている文章しか読みたくないからです。つーかそういった文章しか読んでる時間がない。
古美術を巡る文章は典型的な〝閑文字文学〟ですが、だからこそ日本文化の本質に肉薄できる可能性があります。文化領域ではこういった逆転がよくあるのです。古い物を見る作家の優れた視線が、直感として日本文化の本質をえぐり出してゆく。古典文学を読解するよりも日本文化の形を手に取るように読者に伝達できることがあります。そういった作家の文章だけが骨董エセーとして読者を獲得できる時代になるでしょうね。
んで石川も骨董を買うことがあるんですが、骨董界では〝人が物を選ぶのではなく物が人を選ぶ〟と言ったりします。人間がダメだと贋作が寄ってきてニセモノばかりのコレクションになり、人間が本物だと、本物というだけでなくそれ以上の面白い骨董が自然に集まってくるっていうことですね。ん~恥をかかないためにも気をつけねば。まー高い物を買うときは鶴山さんに相談したりしてるんですけんど(爆)。
■ 鶴山裕司 連載エセー『言葉と骨董』『第052回 奥州平泉中尊寺金色堂壁之金箔』 ■
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