鶴山裕司さんの連載エセー『言葉と骨董』『第049回 襤褸(ぼろ)』をアップしましたぁ。江戸から明治、昭和初期まで庶民が使っていたボロ着について書いておられます。『襤褸を初めて骨董屋で見たとき、驚いた。まずこんなものに値段がついていることが驚きだった。普通の感覚で言えばゴミである』と書いておられますが、前回は新聞の切れ端が題材でした。それに比べれば進歩(?)したのかもしれません(爆)。
ただ誰が見ても名品で高価だろうなぁと思える骨董よりも、無価値スレスレの骨董の方が、著者の思想がはっきり表れるものだと思います。
たいていの骨董は、無価値な邪魔物から、ある時を境に美的価値がうんぬんされる骨董に変わる。その敷居はどこにあるのか。一つの考え方として「物が用途を失ったとき」がある。(中略)ある種の物は、ある時期に決定的にその用途を失う。より耐久性の高い物、より使いやすい物が現れてお払い箱になるのだ。当然、使い勝手の悪い物は捨てられてゆく。しかしある人たちがふと手を止めてしげしげと眺め、「なかなかいいじゃないか」と捨てるのを惜しむのである。
物は用途を失って初めて、その形や模様が正確に目に飛び込んでくる。こんな不思議な形をしていたのか、こんなに細部まで模様があったのかと改めて驚かされるのである。襤褸もまたそうした時代変化を経て新たな骨董のジャンルになった。襤褸はランダムに継ぎはぎされているようだがそうではない。縫った女性たちの、そこはかとない統一された美意識がある。それは紀元前一万年の縄文時代から変わらない。使えるだけの道具では人間は満足できないのだ。より美しい素材を選び、彫りや絵で細工を施す。
鶴山裕司
見事な骨董論です。詩人で最も優れた美術論を書ける著者でしょうね。ブランド志向の骨董自慢をして悦に入っている作家もいるわけですが、そういう作家がブログでアップしている骨董について鶴山さんに聞いたら、『本物ならどこに出しても自慢できるね~』とリーガルハイの古美門研介の口調で言って、真贋については教えてくれませんでした。石川の骨董の師匠はなかなか扱いにくいのでありますぅ(爆)。
■ 鶴山裕司 連載エセー『言葉と骨董』『第049回 襤褸(ぼろ)』 ■
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