作業着か夜着 木綿地継ぎ接ぎ 明治から昭和初期 東北地方
大昔、といっても僕はリアルタイムで覚えているが、水前寺清子さんの『いっぽんどっこの唄』が大ヒットした。「ぼろは着てても こころの錦 どんな花よりきれいだぜ/わ~若っかいときゃ 二度ない どーんとやれ お~男ならぁ/人のやれない ことをやれぇ~」という歌詞である。作詞は『男はつらいよ』や『函館の女』でも有名な星野哲郎さんだ。水前寺さんの『三六五歩のマーチ』も星野さんである。今なら「なんで男の子だけ頑張らなきゃならないの」と不平の声が上がりそうだ。ただまあ男の子が元気じゃない時代は面白くない。青年はバカみたいに抽象的で高い理想を掲げ、現状を打破してゆけばいいのである。
で、今回は襤褸、ボロである。前回はホントにゴミ同然の新聞の切れ端を取り上げたが、襤褸は驚かれる方も多いだろうが、骨董屋でそれなりの値段で取引されている。こんなものに興味を持つのは自分だけと思っていても、世の中は広い。必ずと言っていいほど熱心なコレクターがいる。襤褸の世界も同様で図録や研究書が何冊か出ている。浅草にはサザンオールスターズやワンオクロック、星野源さんらが所属する大手芸能事務所アミューズが運営するAMUSE MUSEUMがあり、民俗学者で民具研究家の田中忠三郎さん蒐集の襤褸が展示されている。主に青森県で蒐集した襤褸のようだ。
『いっぽんどっこの唄』がヒットしたのは昭和四十一年(一九六六年)で、僕はごく普通の中流家庭の子供で時代は高度経済成長期に差しかかっていたから、普段はまったく戦争の名残を感じなかった。しかし今思い返すとやっぱり戦後だった。街には物乞いの傷痍軍人がいたし、今とは質が違うがつましい暮らしをする同級生もいた。「ぼろは着てても こころの錦」という歌詞が訴えかけるような心がまだ人々の中に残っていたのである。ただ継ぎはぎだらけの服を着ている人は、少なくとも僕の周りにはいなかった。ボロ着を着ているのは恥ずかしいという社会風潮が、今より強くあったように思う。
写真掲載したのは野良着か夜着の襤褸である。もう十年以上前だが、お名前は忘れてしまったが、襤褸の大コレクターがコレクションを手放し、それなりの量の襤褸が市場に出た。襤褸を初めて骨董屋で見たとき、驚いた。まずこんなものに値段がついていることが驚きだった。普通の感覚で言えばゴミである。特に元の所有者にとってはそうだったはずである。ご先祖様であれ、ボロ着を着ていたことはあまり人に知られたくないだろう。実際襤褸の蒐集家や研究者の本を読むと、値段はともかく、譲ってくれと頼んでも難色を示す人が多かったようだ。所有者の名前を明かさないという約束で譲り受けることもあったという。
自分で経験していなくても、近親者から聞かされた昔の貧困の思い出話しはあまり楽しくない。ボロ着はその記憶が形になった物の一つである。そのため一九七〇年代頃までは農家の納屋や押し入れの片隅に死蔵されていたが、ほとんどが家の建て替えなどの際に廃棄されてしまった。服(着物)は生活必需品だが消耗品である。時代が古くなればなるほど布は残らない。襤褸も朽ち果ててゆくはずのものを、研究者やコレクターが集めたのである。
〝用の美〟という言い方が骨董業界にはある。柳宗悦が大正時代に始めた民芸運動から生まれた概念で、庶民が使った日用品などの中に機能的な美しさを見出した。民芸は円空や木喰らの民間仏などを含むので、その範囲がかなり広い。ただ新しい美が発見される時には、時代の変化にともなう人間の目の変容が必ずある。
柳宗悦は海軍少将・柳楢悦の息子で、当時は皇室関係の子弟が通った学習院の出である。ほんの一握りしかいなかった超ボンボンだったわけだ。大正デモクラシーを迎えようとする比較的安定した社会でなに不自由なく育った柳には、庶民の生活用具の美が見えた。ただ一般庶民にとっては民具は使えなければ意味のない壺であり皿であり、様々な実用品だった。美的価値と言われても、なんのことやらという感じだったろう。
たいていの骨董は、無価値な邪魔物から、ある時を境に美的価値がうんぬんされる骨董に変わる。その敷居はどこにあるのか。一つの考え方として「物が用途を失ったとき」がある。現代では食器は百円ショップに行けば買える。服も古着屋のワゴンに、まだまだ使える物が山積みになっている。もちろん使う人はそれぞれの好みで物を選ぶわけだが、ある種の物は、ある時期に決定的にその用途を失う。より耐久性の高い物、より使いやすい物が現れてお払い箱になるのだ。当然、使い勝手の悪い物は捨てられてゆく。しかしある人たちがふと手を止めてしげしげと眺め、「なかなかいいじゃないか」と捨てるのを惜しむのである。
物は用途を失って初めて、その形や模様が正確に目に飛び込んでくる。こんな不思議な形をしていたのか、こんなに細部まで模様があったのかと改めて驚かされるのである。襤褸もまたそうした時代変化を経て新たな骨董のジャンルになった。襤褸はランダムに継ぎはぎされているようだがそうではない。縫った女性たちの、そこはかとない統一された美意識がある。それは紀元前一万年の縄文時代から変わらない。使えるだけの道具では人間は満足できないのだ。より美しい素材を選び、彫りや絵で細工を施す。
ただ襤褸のような骨董の鑑賞(読み解き方)は、陶磁器などよりも難しい。焼物は古くても壺や皿や茶碗や徳利である。骨董だから歴史を持っているが、たとえ箱書きがあってもその詳細まではわからない。「この味がたまらない、釉薬の景色が素晴らしい」などと言っていれば済むところがある。しかし襤褸はある時代の人間の営みの集約である。その背後には膨大な民俗学のフィールドが広がっている。
人間は身体が毛で覆われていないから、夏は裸で暑さをしのげるが、冬は寒い。製糸技術がなかった時代には獣皮などで簡素な防寒服を作っていた。日本が歴史文書に登場するのは西暦二八〇年から二九七年頃に成立した『魏志倭人伝』が最古である。よく知られているように邪馬台国と卑弥呼王の記述があり、倭人は貫頭衣を着ていたと書かれている。貫頭衣は大きな布の中央に頭が通る穴を開け、両腕が出るようにして身体の左右の部分を縫い合わせる。いわゆるポンチョだ。この頃すでに製糸技術があったことがわかる。また日本では貫頭衣の技法を複雑にして着物が成立していった。
現代では着物を着るのは大ごとだが、戦後の一九五〇年代くらいまでは、実に便利な衣服として活躍していた。着物は基本、直線で構成される。布を切って袖、襟、丈などを組み合わせて縫い上げてゆくわけだから、どこか傷めば外して取り替えることができる。端切れを集めて大きな布に仕立てることもできる。晴れ着が普段着になり労働着になり、家の中で家族しか見ることのない夜着や布団になってゆく。ぼろきれになるまで再利用できたのだ。布と着物の技術が生み出されてから、近代に至るまで着物はそうやって使い回されてきた。
図版掲載した作業着か夜着の襤褸は、恐らく明治から昭和まで継ぎはぎを当てながら使われた着物である。半世紀くらい酷使されないとこういった姿形にはならない。何枚布が使われているのか数える気にならないほどの多さである。また次々に布が重ね縫いされているので、解体すれば表に現れているよりも多くの布が使われているはずだ。布を重ね縫いするのは防寒のためだが、綿が高価だったためでもある。また生地は藍染めの木綿である。そこから農民の、それも貧農の着物だということがわかる。恐らく東北地方だろう。このくらいエクストリームな襤褸は、言いにくいが東北地方にしかない。
江戸から明治にかけては日本の人口の約八割が農民だった。大地主の富農はそのうち約一割で、残りは自作農、といっても狭い農地しか持たず、自作と小作を兼ねる農民も多かった。明治に入ると江戸時代よりも貧富の格差が拡大し、小作農が約五割に達したと言われる。小作料率は五〇から六〇パーセントだったから、多くの農民が貧困に喘いだ。当時の出生率が高かったのは乳幼児の死亡率が高かったためでもある。運良く子供が育っても狭い農地で家族全員を養ってゆくことはできず、次男以下や娘たちは都会へ出稼ぎに行くか、紡績工場などで働くことになった。それもまた厳しい労働環境だった。
麻よりも丈夫で保温性の高い木綿が普及するのは江戸中期頃である。また江戸時代には農民は藍色の着物を着るよう定められていた。下着から作業着、外出着に至るまで藍色だった。この封建身分制度の決まり事が明治になっても残った。藍染めは安価で防虫効果もあり、二度、三度と染めると布が丈夫になると言われていた。残されている襤褸のほとんどが藍色なのはそのためである。一九五〇年代から軽くて丈夫で温かい化繊(化学合成繊維=ナイロンやポリエステルなど)が普及したことで、木綿は急速に使われなくなった。
襤褸は庶民の生活の記憶そのものなわけだが、古い物好きというだけの曖昧な嗜好で終わらなければ、そこからいくらでも過去の生活の機微を辿ってゆくことができる。当たり前だが農民が使った着物類は多岐にわたる。田植えから草刈り、収穫、山仕事、普段着、晴れ着と、仕事や行事に応じて着物を使い分けていた。布だけではない。藁や萱などの植物も履き物や雨具に使用された。油紙も防寒具や雨具に使われた。骨董はすべからくそうだが、手がかりを手元に置いておくのと、本だけで調べるのでは勘の働き方が違ってくる。
民俗学者ではないので、僕が持っているのは襤褸が市場に溢れていた時期に買った数点だけである。その中に継ぎはぎした布団表の残闕がある。一枚のパッチワークの布で襤褸には違いないが、女性たちのものすごい裁縫時間がつぎ込まれている。綿が高価だったので、多くの農民は蒲や稲藁の上に布団表を敷いて寝ていた。因幡の白兎伝説では皮を剥がれた兎が蒲の穂にくるまって傷を癒やす。蒲は大昔から寝具として利用されてきた。よく見ると遊び心がある。女性たちは農作業だけでなく、水汲み、炊事洗濯、針仕事と一日の大半を働いて過ごした。その忙しい労働の最中でも、継ぎ当ての際には布を選び、模様の方向を合わせた。その逆に微妙なバリエーションを付けたりしている。生活は辛いだけでなく、当然だが様々な小さな楽しみに満ちていた。
布団表残闕 木綿地継ぎ接ぎ 明治から昭和初期 東北地方
こういった好奇心は、単に古い物が好きなだけなら必要ない。しかし物書き業にはおおいに役に立つ。たとえば時代劇や歴史小説では時代考証が付きものである。ただ学者でない限り、特定の時代の特定の生活用具や社会風俗を正確に再現することは不可能だ。また物の知識は必要だが物は物に過ぎない。社会全体のフレームを理解した上で、初めて個々の物の使われ方が――厳密であるかどうかは別として――リアリティを持って迫ってくる。単に過去の時代にあった物を並べても、それらは有機的に結びつかない。
ボロ着は着る物だから、当然だが買ってから自分で着てみた。綺麗に洗濯してあるので匂いなどはしない。意外に温かい。誰かわからないが、ある農夫が長年愛用した着心地の良さが伝わってくる。そうやって、しばらくじっと座っている。何かがわかったような気がしてくる。陶磁器などを手に入れた時も基本的には同じだ。待っていれば必ずと言っていいほど、物を通してある精神世界が広がってゆく。
もちろんそんな背景をすっかり忘れて審美世界に遊ぶこともできる。ある種の現代美術を見る目と同じだ。ファッション・フォトの世界では、お遊びで若い男女のモデルに襤褸をまとわせて写真を撮ったりすることがある。時にハッとするほど美しい。それは民俗学的には貧しさの象徴である襤褸が、その底に華やかな楽しみを秘めていることを示している。深く広く何かを読み取れるのが骨董の魅力であり、それが古い物が持っている力である。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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