大野ロベルトさんの連載映画評論『七色幻燈』『第十六回 感情的なピアノ』をアップしましたぁ。『七色幻燈』はそのタイトル通り、映画の中の色に注目した批評です。連載も15回となり、ちょっと趣向が変わるようです。大野さんは『今回からはいわば第二部、応用編として、作品ごとの色に注目しながら、その主題にもいますこし切り込んでゆくこととしたい』と書いておられます。新趣向連載初回ではニコラス・ハイトナー監督、マギー・スミス主演の『ミス・シェパードをお手本に』を取り上げておられます。
で、これは一般論ですが、映画批評は10本や20本書くのは難しくありません。たいていの文化好きは折に触れて映画を見ています。物書きなら誰でも一定量の映画批評を書けると言ってもいい。ただ大量に映画評を書くのは難しい。〝好きな映画がある〟くらいでは続かないからです。〝映画そのものが好き〟でなければ映画批評は量産できない。また書き続けたとしても、映画批評は出版として非常に成り立ち難い。要するに書き手にプラスアルファが要求されます。蓮実重彦さんや淀川長治さんを思い浮かべてもらえばいいかもしれません。彼らは社会的立場やその出自に特権的なものを持っています。
映画批評を書く人は、批評対象が芸能界に近いせいか、ジャーナリズムに敏感な方が多いように感じられます。しかし学者さんであれ市井の作家であれ、映画批評で特徴を出してゆくのはとても難しい。読者だって映画そのものが好きなのであり、映画批評単独を好んで読む人は少ない。そのため映画批評家として頭角を現すためには、最低限でも大量に書き散らさなければなりません。その場合も2つ方法がある。一つは独自の映画批評の方法を貫くこと。もう一つは興行であり博打でもある映画産業をなんらかの形で翼賛する批評家になることです。どちらの場合でも厳しいことは変わらない。つまり本は出にくい。
こういったことは、しばらく映画批評を書いたりしていれば自ずからわかってきます。わからなければいずれ映画批評から手を引くことになる。文学金魚では映画評や音楽評、美術批評などを作家の方に書いてもらっていますが、基本、本業の余技という扱いです。これらのジャンルの厳しさを考えれば大量に書くことができて、かつ、作家のスタンスとしては余技というのが一番精神的に楽だと思います。本が出るとしても、作家としてのプラスアルファ要素を最初から織り込んでゆけるからです。
もちろん文学金魚では専門の映画批評家も常時探しているのですが、映画批評で求められるハードルが厳しくて高いということがわかっていなければ、なかなか難しいことになります。いずれにせよ、多くの人がレジャーとしても楽しむことができる芸術ジャンルの批評を行う時は、50本から100本くらい批評を書いて、ようやくスタートラインに近づいたというくらいの認識が必要です。
■ 大野ロベルト 連載映画評論 『七色幻燈』『第十六回 感情的なピアノ』 ■
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