タイトルで決まった、という場合がある。もちろん期待外れというのもあるが。
最近では「先生を流産させる会」そして「桐島、部活やめるってよ」。両方とも学園ものってのは、確かに理由がある。
我々はたいてい、国内の中学・高校を出ている。だからそこでの雰囲気、カルチャーの記憶を共有している。「先生を流産させる会」とか、「桐島、部活やめるってよ」といった言葉は、「ああ、ああ」といった感じで当時の雰囲気を思い出させる。で、それを他の皆も共有しているはずだ、という確信もある。つまりはそのタイトルは、すでにタイトルだけで「リツイート」の衝動を起こさせる。
小説すばる8月号では、「桐島、部活やめるってよ」の映画公開を前に、その主題歌を担当する高橋優と原作者の朝井リョウの対談が掲載されている。これといって何か、特別に新しいことが語られているわけではない。ただ、高校時代というのは、イケていようとイケていまいと、すべて途中経過なのだ、と確認しているぐらいだ。
実際その通りで、そしてたいていの高校生はイケてなんかいない。思い出したくもない、というのが正直なところだろう。そのしょうもない、無益そのものの、だらだらした時間こそが最も印象に残っている共有の記憶だったりする。
そしてこのだらだらした無意味な時間の中で、「先生を流産させる会」といった思いつきには既視感があり、「桐島、部活やめるってよ」といった同級生の声は聞き覚えがある。
この既視感の再録・再現に、最も適しているのはしかし、やはり映画なのだ。映画はただ、カメラを放り出しておいてもできる。と言うより、作為もなく、放り出されたかのようなレンズに映る動く映像、それへの単純な悦びと感動を忘れていないものを「映画」と呼ぶのだから、当然だ。映像は既視感のあるものでいい。特権的な瞬間は、基本的には否定されなくてはならない。
けれども文学は、本質的に少し違うものである気がする。青春文学の代表、「ライ麦畑でつかまえて」は未だに映画化されず、独白中心の同作はそれが不可能でもあり、その必要も感じられない。何より主人公は無為な時間に苛立ち、たった24時間程度の間に、性急に答えを探し求めている。それもまた若さの一面で、それゆえに主人公は無為なる「学園」生活にはそぐわない。
タイトルを聞いた瞬間に傑作を予感できる、というのは、つまりはあるフォーマットにはまった形が想像できる、ということでもある。それが映画に多いのは、映画は文法が正しく活用されているだけでも心地よく観ることができるサブカルチャーだからだろう。文学はたとえば「ライ麦畑でつかまえて」といった、何のことかわからないタイトル=命題を、読み終わったとたんに納得させるようなものだ。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■