新鮮招待席、というコーナーがある。ほとんど網羅的、何でもありな感じのこの雑誌で、なおそこからはみ出たものへもアプローチしようというコーナーだろう。
そうあらためて見ると、小説とか物語とかいうのはずいぶんと裾野の広いものだ。文芸ジャンルのものとして捉えるより、ひとつの「形式」として考えるべきなのだろう。ほとんどすべてのエンタテイメントに、物語形式は導入し得る。
今回の新鮮招待席は、館淳一の「奥様、セーラー服をどうぞ」。別に新鮮でも何でもなく、むしろ極めてオーソドックスなものだが、それがこういった一般の文芸誌に載っていることが「新鮮」といえば「新鮮」なわけだ。
では、この作品がどこから「招待」されたのかというと、「テキストによって性的刺激を与えられるエンタテイメント」(!)から、ということになる。で、「招待」された方は少しよそ行きの服を着ているのだろうか。雰囲気としては、若干丁寧というか、品よさげな文体である。
特に意識しなくとも、掲載される媒体によって、やはり作品のトーンは微妙に変わることがある。作家たるもの、読者の顔つきを何となく想定してしまうものだ。こういったプロフェッショナルなエンタテイナーなら、「文学者」よりなおそうだろう。
ひとつあり得るのは、こういったエンタテイナーが数多くいる中で、どことなく文芸寄りの雰囲気を持った作家を「招待」した、ということだ。何でもありのように見えても、雑誌にはそれぞれカルチャーがあり、それへの自己保存則がはたらく以上、当然のことではある。
作品では、奥様がセーラー服を着る状況として、映像作品を制作するという「物語内の物語」形式が援用されていて、ポスト・モダン的 = 文芸的と言えないこともない。が、どちらかと言うと、やはり性的刺激を与えるためのヴィジュアルなインパクトを与える手段としてのコスチューム・プレイであり、それへの流れを作る物語化として「映像作品を作る」設定になっているに過ぎまい。
このようなジャンルのものとしては、ありきたりとも言える設定を一瞬、ポスト・モダニズムと錯覚させるのは、もちろんこの「場」である。確かにこの試みは、「では文学とは何なのか」と考えさせるきっかけにはなる。性的刺激に加えて多少特徴のある文体。それだけで大層な「純文学」となるなら、「文体」とはポルノ小説と一線を画するための隠れ蓑なのか。そのような特徴あり気な、こだわりあるふうな文体で書けと言われれば、その程度の芸のあるポルノ作家はいくらでもいよう。
問われているのは、その「文体」がどのような核心、思想から生まれたのか、ということだ。それに正面から向き合える「文学者」が今、どれだけいるだろう。この問いを突きつけるためだったなら、もっと筋金入りっぽい、その道のプロのポルノ作家でもよかったように思える。
池田浩
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