アテクシの会社ではそろそろ勤務評価の季節なのよ。上司が部下を四段階で評価するわけね。評価ランクを上からA、B、C、Dとすると、Aは全体の五パーセントくらいね。最優秀賞よ。Bは八十五パーセントくらいでマジョリティを占めますわ。可もなく不可もない評価で、たいていの社員の定位置はここね。Cはちょっとヤバイでござーますわっていう評価で、Dはああた待ったなしでヤバイわよって評価になりますの。C評価だと執行猶予が半年から一年は与えられますけど、Dになると窓際プロジェクト発動ですわ。つまり実質的な解雇予告が始まるわけ。
最近アテクシの会社では、超一流企業の某D通さんが、あんなにブラックな体質だったって知らなかったという話題で持ちきりですけど、うちの会社は原則残業禁止で有給休暇全消化がノルマですから、まあ普通の会社よね。だけどドメドメの日本企業より社内査定は厳しいわ。外資も含めて日本法人の会社ではアメリカのように簡単には社員を解雇できませんけど、サラリーマンの成果と権利の関係はびみょーね。当たり前ですが、会社には遊びに来てるわけじゃないから、貢献成果が低いとプロモーションもできず給与が低いのは当然よ。あまりにもひどい勤務態度だと弁護士先生を雇ってでも解雇になるわ。サラリーマンに限りませんけど、社会では義務と権利のバランスが取れていないとトラブルになるわね。
だけど完全無欠のオバサマとはいえ、アテクシも勤務評価は憂鬱なのよー。人の生活がかかってるわけだから、CとかDはつけたくないわね。でも会社から割り当てが決まってるから苦しいの。あ、もちろんアテクシも上司から査定されるわけですわ。だけどこれは人間社会では付きものね。たとえフリーランスになったって、仕事量とか稼ぎとかで実質的社会評価を下されることになるわ。アメリカの成果主義というか、言葉は悪いですけど拝金主義的な評価システムは、いいところもあるのよ。成果を上げればお給料は正比例で上がります。でも成果が出なければクビ。たくさんお給料をもらっていれば文句は言えないわね。日本企業では年金とかまで含めて考えないと納得出来ないお給料だから、労使トラブルが絶えないとも言えるわ。だけどアメリカ式弱肉強食社会は日本では難しいわよね。
人間社会が人間で埋め尽くされているのは当然ね。超の付く満員電車のように人であふれかえってるわけ。その中で一定のポジションを得るだけでも大変ね。中にはグリーン車に座っていたり、忙しいけどプライドと権力をもって電車を運転している人もいますわ。このデンでいうと、時刻表を作ったりそれを管理してるもっと偉い人もいるわね。だけどたいていの日本人は満足できなくても現状を守ろうとするわ。窮屈でも一定の場所にずっと立っていようとするわけ。席を替わってと言う人は少ないですわね。それはそれで中庸な美徳社会を生みますけど、言い方を変えると社会全体が保守的ね。自由主義社会にはなりましたけど、日本の社会は昔ながらの封建的心性を残している面が確実にあるのよ。
「相変わらず、逢対も毎日続けておるのか」(中略)
「むろんだ」
逢対とは、登城する前の権家、つまりは権勢を持つ人物の家に、無役の者が出仕を求めて日参することである。老中、若年寄はもとより、小普請組組頭、徒頭、評定所留役、勘定奉行・・・考えられるあらゆる屋敷を回る。(中略)
「まねできんな。おまえの堪え性は」(中略)
「さほどのことではない」
さっきと同じ言葉を、義人はまた言う。そして、続けた。
「これが俺の武家奉公だ。だから、毎日通っている」(中略)
「武家奉公するための逢対ではなく、逢対そのものが武家奉公というわけか」
「当然であろう。家禄をいただいているのだ。なにかをやらねばならん」
(青山文平「逢対」)
今号には第一五四回直木賞を受賞された青山文平先生の短篇三作が掲載されています。青山先生、おめでとうございます。三篇とも時代小説でございますわ。「逢対」の主人公は旗本の竹内泰郎という青年です。旗本といっても末席で、お役に就いてもいません。ただ算学が好きで、屋敷の一角で私塾を開いています。最近になって近所の煮売屋の女主人・里という恋人ができました。ただ里は私娼の娘で、泰郎は名ばかりとはいえ旗本です。そう簡単に夫婦になるわけにはいきません。里も心得たもので、「あなたとは赤ちゃんができるまでのおつきあい。できたら、あなたとはさっさと別れるの。だから、あなたはわたしのことなんてぜんぜん考えなくっていいのよ」と言います。
里の母親は、里を裕福な男の妾にするつもりで産んだのでした。実際、里は一通りの習い事をしてからある男の妾になりました。里の母親は、お前も器量よしの娘を産んで、その子を妾にすれば安泰な老後を過ごせるよ子供の頃から里に言い聞かせてきました。里は泰郎が美青年で、彼の子で女の子なら器量良しになると思ったので契ったのだと言います。江戸にはそういった母娘もいたでしょうね。泰郎はあまりにも割り切りのいい里にひっかかりを感じますが、封建社会での身分違いは絶対なので、緩い関係を続けています。
また泰郎には幼なじみの北島義人という青年がいます。彼も旗本ですが無役です。ただ泰郎とは違い、役職を求めて日々努力を続けています。身体を鍛練するのを怠らないのはもちろん、逢対と呼ばれる貴人への拝謁を十二年も続けています。ただし逢対によってお役を得られた武士はほとんどいません。宝くじに当たるようなものなのです。しかし義人はめげません。「逢対そのものが武家奉公というわけか」という泰郎の問いに、「当然であろう。家禄をいただいているのだ。なにかをやらねばならん」と答えます。武士らしいといえばそうも言える覚悟です。
「逢対そのものを、武家奉公と認めていた気持ちに嘘はない。十年このかた、ずっと己に言い聞かせてきた。しかし、出仕が現実のものに思えてから、否応なく気持ちが変わっていった。(中略)どうせ無理と分かっていたからこそ、無欲でいられた。ところが、無理ではないとなったら、とたんに欲が出る。なんのことはない。人となんら変わるところはなかったのだ。(後略)」
そして義人は、泰郎の目を真っ直ぐに見て言った。
「おまえ先刻、俺を武家らしいとさんざ持ち上げてくれたが、事実はこのとおりだ。どうだ、幻滅したか」
「なんの」
即座に、泰郎は答えた。
「幻滅なんぞするものか。ここでがんばらない武家がどこにいる!」
(同)
義人は泰郎に、若年寄で御側衆の長坂備後守秀俊の話をします。逢対で出仕できる可能性は限りなくゼロに近いのですが、長坂様の逢対ではもう二人も出仕した武士がいるというのです。義人は「どうせ無理と分かっていたからこそ、無欲でいられた。ところが、無理ではないとなったら、とたんに欲が出る。なんのことはない。人となんら変わるところはなかったのだ」と自嘲します。義人は「逢対そのものが武家奉公」だと言いましたが、それは彼個人の倫理ではありません。当然ですが社会的地位を得るための準備としての倫理です。
泰郎は「幻滅なんぞするものか」と即答します。義人から長坂様がひとかどの人物だと聞かされていたからです。社会全般で誰もが納得できる正義と公平が守られているなら、努力は必ず報われると泰郎は考えているのだと言っていいでしょうね。現代よりも江戸時代は権力者の恣意が通りやすい封建社会でしたが、長坂様は信頼できると泰郎は考えたのです。
「儂は刀剣を好む」
「は」
「それも、並みの好み方ではない。言ってみればすれっからしだ」(中略)
「ならば、譲ってくれるか」
「その前に、二点ほど、伺ってよもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「まずは、その二度の対面の際も、持ち主に御役目を与えられたのでございましょうか」
「むろんだ。そうして選んだとて、結果は大差ない。文政の今日、番方など単なる飾りだ」
(同)
泰郎は義人といっしょに長坂様の逢対に出かけます。逢対の場では二人とも姓名くらいしか発言しなかったのに、泰郎の元に長坂様からのお召しがかかります。出かけてみると、泰郎の持っている刀を譲ってほしい、その対価に御役に就けてやろうという話です。義人はたいていの貴人が逢対に出向く武士を邪険に扱うのに、長坂様の対応は丁寧で、それは彼の度量の広さを表していると言っていました。実際、逢対の場では長刀を預けますが、長坂様の屋敷では人数分の刀掛けを用意して丁寧に扱ってくれたのでした。しかしそれは刀の品定めをするためだったのです。長坂様は無類の刀剣好きで、逢対などまっぴらだと思いながら、優れた刀に出会えるかもしれないという楽しみのためにそれを続けていたのでした。
泰郎は刀を譲ってもいいが、それは友人の義人の物で、彼を役職につけて欲しいと言い残して長坂邸を後にします。また帰ると私娼の娘である里に結婚を申し出ます。これが青山先生の「逢対」というお作品の救いになっています。ただモヤモヤしたものが残りますわね。
時代小説はうんざりするほど書かれていますが、青山先生のお作品は、江戸時代をエクスキューズにした、現代では表現できない救いやヒューマニズムを描かないという特徴がございます。ただ時代小説は現代を写す鏡です。青山先生の、簡単に押しつぶされてしまうような救いの設定は、現代社会の秩序がもはや信用するに足りないものだという思想を示唆しています。社会は公正で一定の正義が行き渡っているのなら、個人が身を律する倫理は意味があります。しかし泰郎と義人の期待や努力は水泡に帰したのです。青山先生は耐える武士を描くのがお得意ですが、もうすぐ大乱が始まるかもしれませんわね。
佐藤知恵子
■ 青山文平さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■