茶道は書道になぞらえて、真・行・草の三つの様式に分けて語られることが多い。茶室で言えば真は書院、草は草庵である。御道具では真は東山御物に代表される唐物、草は和物で、端正な中国製品とは異なり土の香りを残したような無骨な陶器が中心になる。ただ室町末から桃山時代の茶室遺構や御道具を含め、茶道を真・行・草の三種類に厳密に分類することはできない。日本人の美意識を仮託した東山御物からして草の精神が反映されている。仁清御室焼は真の精神で作られたと言ってよいが、同時代には対馬藩がわざわざ朝鮮釜山窯で製作した御本など、利休・織部好みの御道具が盛んに作られ続けている。
江戸初期以降、茶道は宗家や流派が確立され伝統文化として継承されてゆくことになる。しかし利休・織部から遠州にかけてのほんの五十年ほどで、茶道は真から草までの精神を統合した総合芸術として一気に成立している。馬場あき子さんの言葉で言えば、短期間に「混淆の美学」として確立されたのである。能楽が観阿弥・世阿弥親子から金春禅竹にかけての数代で、完成した芸術に昇華されたのと同じ構造である。
李朝堅手白磁茶碗 李氏朝鮮時代 十六世紀末から十七世紀初頭(著者蔵)
口径十三・七×高四センチ(いずれも最大値)
同 見込
同 高台
李朝堅手練上茶碗 李氏朝鮮時代 十六世紀末から十七世紀初頭(著者蔵)
口径十三・七×高四センチ(いずれも最大値)
同 見込
同 高台
李朝堅手白磁茶碗と練上茶碗は、僕が仕事をする時にコーヒーとお茶を飲むために使っている器である。白磁茶碗は粉引のような雰囲気で、この手の茶碗を「務安粉引」と呼んだりする人もいるが、実際には半陶半磁の白磁碗に味が付いた物である。練上茶碗も半陶半磁の作品だが、灰釉と黒釉を使ってぐるぐる模様(練り上げと呼ぶ)を作り出している。いずれも桃山時代から江戸初期にかけての作品である。
朝鮮半島で焼かれた陶器(青磁や半陶半磁を含む)を高麗茶碗と呼ぶが、江戸初期で高麗茶碗の生産は終わりである。半島の窯が磁器に移行してしまったからである。中国が磁器窯になったのはもっと早く、明時代末には移行している。足利将軍が愛好した唐物茶碗は桃山時代には入手したくてもできなくなっていた。江戸中期以降、茶道具の焼き物は国産品(国焼)が中心になり、その傍ら細々と古作の中国・朝鮮製品が輸入され続けた。
写真を見れば一目瞭然だが、僕が持っている茶碗はざっくりとして大らかな草の精神を表現している。ほとんどの骨董好きも僕と同じ好みで茶碗を選ぶだろう。茶道が唐物を頂点とする真の茶を最高峰としているのは今も変わらないが、日本人の好みは草の茶にある。しかし真の精神が茶道から失われたことはない。
名品にはほど遠いが、李朝堅手白磁茶碗と練上茶碗も十分抹茶碗として使うことができる。しかし僕のように裸のままぞんざいに扱ったのでは駄目である。極論を言えば、茶道具として使うためには〝お支度〟が必要である。上質の桐箱を作り、しかるべき宗匠か茶道に精通した人に箱書きを頼まなければならない。茶碗は上質の布を使った仕覆でくるみ、箱の四隅には茶碗を衝撃から守るための綿を詰めた桟を添えてやる必要がある。
多くの骨董好きはこのようなお支度を、茶道特有の四角四面の形式主義だと言って嫌うだろう。僕もあまり積極的ではない。しかし利休遺愛品を見ればわかるように、侘びるとは勝手気ままに偏った、だがある人にとっては居心地のいい美の世界に閉じ籠もることではない。利休所持の竹花籠や炭斗には漁師や農民が実際に使っていた道具を譲り受けたという伝承がある。だが実物を見れば、利休配下の最高の職人が繊細な技術で生活用具を写しているのは明らかである。利休は真の茶に対抗するために草庵の茶を創始したわけではない。むしろ美とはほど遠い無(所有)の貧の境位において、真の茶と同質の美を表現したのである。
多くの人がお茶好きの親戚や友人の家で薄茶をふるまわれたことがあるだろう。ゆっくりお茶をいただいていると、「やっぱりお茶はいいな」という気持ちがしみじみと湧いてきたりする。そこにお茶を愉しむ原点がある。ただ茶道には厳格なまでのお作法がある。お茶を愉しむ大らかな気持ちと、細かなところまで所作が決められた堅苦しいお作法は、矛盾しているように思えないこともない。しかしもちろんそんなことはない。
茶道のお作法は極めて合理的である。お茶席における人間の動きが、最もスムーズで美しく見えるように練り上げられている。それは能の型と同じで優れた茶人たちが長年にわたる試行錯誤によって作り上げてきたものである。簡単に崩すことはできない。しかしお作法は〝形式〟に堕しやすい。形式をなぞることに終始してしまう場合が多いのだ。型を持つ伝統芸能であるお能やお茶は、常にこの「形式」と「内面」の問題に悩まされている。
以前、日本画家の瓜南直子さんの遺稿集『絵画を生きて-月の消息』を読んでいたら、「芸術では女は男にかなわない」という意味の文章が目にとまった。公表を前提としていない日記の一節だったから、なおさらひっかかるものがあった。瓜南さんは強い意志を持った優れた画家である。芸術家の矜持としても、彼女がステレオタイプな男尊女卑思想を信じていたとはとても思えない。彼女の感慨は、男のある一面を目の当たりにした時にとっさに湧いて出たものではないかと思う。
それは男の異様なほどの抽象化能力のことを指しているのではなかろうか。瓜南さんは芸術談義をしている時に、ほとんど無駄なまでに抽象化を重ね飛翔してゆく男性的精神に触れたのではないかと思う。芸術の世界において、男はある本質に届いたと直観するとそれを形式化する傾向がある。芸術の本質は多種多様な表現の源だが、それ自体を直截に明らかすることはできない。その壊れやすい不定形の原形質を保持するためには外皮としての形式が必要なのだ。能の型も茶道の型も基本的には男たちが作り出したものである。
この「形式」と「内実(内面)」の関係を、僕は『日本文学の原点-馬場あき子中世文学論』で小原眞紀子のテキスト曲線を援用して考えてみた。男と女の性差は生物学的なものだがジェンダーでもある。生物学的性差と社会的性差を厳密に分類・分析することはできないが、少なくとも芸術世界において〈男性性表現〉と〈女性性表現〉は相関的なものである。性別が男であろうと女であろうと、表現者は〈男性性表現=形式〉と〈女性性表現=内実・内面〉のベクトルを行き来する。能の厳格な「型」と、ほとんど不気味なまでに蠕動し続ける「表現内容」は、〈男性性表現〉と〈女性性表現〉によって構造化されているのではないかと考えたのである。この構造は恐らく茶道にも適用することができるだろう。
真の席である書院の茶にも草の精神は流れている。農家の納屋を移築したような草庵の茶にも真の精神はある。真と草は対立的だが、実際には茶人の精神はその両極を行き来する。書院の茶があまりにも完璧になりすぎると、亭主はどこかで崩れを演出しなければならない。草庵の茶では、撞着的な言い方だが貧が貧に見えてはいけない。茶室を塵一つなく掃き清め露地や庭に水を打つのはもちろん、茶事の前には庭の枯れ葉や朽ち葉を取り除き、木の葉の一枚一枚を布で拭いて清浄な緑を演出する。それが人間の為し得る真のもてなしで、最高の贅沢だと考えるのである。草の精神の茶道具に、ピリッとしたお支度を整えてやる理由もそこにある。
利休は茶道についてまとまった考えを書き残さなかったが、『南方録』を始めとする言行録が伝わっている。それらを読むとまるで禅問答のようだ。利休は完璧な作法と道具立てでもてなした人をけなし、利休様がお出ましになった緊張で手が震え、散々な茶席にしてしまった人を「あの点前こそ天下一と申すべし」と誉めている。日本の芸術には厳格な形式から不定形の内実まで、美から醜までを同時に把握し表現しようとする指向がある。
もちろんお茶の作法にせよ御道具のお支度にせよ、それがいったん〝形式化〟されてしまうと、なぜそうなのかという〝内実〟がどんどん失われてゆく。形式だけをなぞるようになるのだ。それは茶の湯の大衆化に大きく貢献したが芸術としての側面は希薄になる。また〝型〟は普遍である。習練によって身につけることができるのであり、型そのものに優劣はない。そのため型は、時に内面の貧困さを覆い隠す鎧となってしまうことがある。この形式化による内実の貧困化は、茶道だけでなく〝型〟を継承するすべての日本の芸術に指摘することができる。
たとえばお茶でお薄をたてますが、その作法はみんな同じです。誰がたてても同じことをやっている。でも何十人もの人たちが宗匠のお手前を注視するわけでしょう。何を見ているのか。これが日本芸道の神髄なの。質を見ているんですよ。芸じゃなくてその人の到達した人間の質ですよね。質を見ているんです。お茶杓の扱いにその人の全人間的な質がこもっているんです。質の美と厳しさを通して、その人の人格を見ているんです。能の仕舞も同じです。型は決まっているわけだけど、舞う人の格調や気韻を、人間を見ているんです。型を通して現れる、その人間の質が美しいか美しくないかを見ているんです。日本の芸術は質を見る芸術なんです。短歌の場合は声です。その歌を声を出して詠んだ時の言葉の響きに人間の質が出ますね。否応なく出る。
馬場あき子さんのインタビューで、この箇所に引っかかりを感じた人は多いのではないかと思う。「何を見ているのか。これが日本芸道の神髄なの。質を見ているんですよ。芸じゃなくてその人の到達した人間の質ですよね」という言葉はまったくその通りである。しかしそれを現実世界で証明するのは難しい。
芸術の世界に限らないが、人間は誰もが形式的外皮をかぶって生きている。社会ではそのような〝外皮〟こそが重要なのだと思える瞬間も多々ある。少し角が立つ言い方をすると、多くの人が、「あいつは誰がなんと言おうとニセモノだ」と指弾したくなるような人を知っているだろう。しかし外皮さえ整っていればそれなりの社会的評価を得て世の中を渡り歩いてゆくことができる。そういう時、人は「内面などになんの価値がある」と思う。外面さえ整っていればいいじゃないか、と。誰もが一度は経験したことのあるわだかまりではないかと思う。
このような人間臭い妄執は、どこまで考えても結論が出ない。ただ馬場さんが語っているのは、あくまで〝見る人〟としての私である。世阿弥も利休も織部も幸福に人生を終えた人ではない。彼らの非業の死は、内面が外面(社会)によって押しつぶされたことを示している。しかし彼らは孤独なまま、最後まで徹底して見る人であり続けた。人間の内面は見る人としての私によって形作られる。それが他者からどう見えるのか、他者に伝わるものなのかどうかはわからない。ただ芸術家なら馬場さんのように、芸術にとっての最高の境位は「その人の到達した人間の質」だと力強く言い放つことができればそれで良い。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(了)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■