茶道の世界ではお茶席で使う棗や茶杓、茶碗などを「御道具」と呼ぶ。値段を言えば高価な物から安物まであるわけだが、基本はお茶を楽しむための道具という位置づけである。また現在では宗家がオーソライズした御道具を使うのが無難だが、茶道の歴史を振り返れば、お茶とはすぐに結びつかないような実に様々な物が御道具として取り上げられている。物は物に過ぎないわけで、持ち主によってその使い方が変わることもある。
粉引平茶碗 李氏朝鮮時代 十六世紀(著者蔵)
口径十三・七×高四センチ(いずれも最大値)
同 見込
同 高台
粉引という名称は日本の茶人が名付けたもので、器体の表面が粉をふいたように白く見えることからこの名称がある。韓国の李氏朝鮮時代の初期、十六世紀頃の作である。作られた場所も分かっており、現在の大韓民国忠清南道の大田広域市に拡がる鶏龍山窯である。鶏龍山の土は鉄分が多く、焼くと黒や濃い灰色に発色する。ただ当時の朝鮮の人々は白い焼物を作りたかったようで、白土を混ぜた釉薬をたっぷり掛けて焼いたのが粉引である。黒の陶体の上に白土を掛けると、微妙なグラデーションの白が発色するという効果も得られた。
平茶碗としたが、サイズを見ていただければおわかりになるように、ちょっと大きめの皿という感じである。もう二十年くらい前の骨董に興味を持ち始めた頃に買った。前の所有者が綺麗に漂白したせいか、入手した時はほぼ真っ白だった。ただその頃は今よりずっと焼物に夢中だったので、骨董の本に書いてある「味」とか「景色」に取り憑かれていた。長年の使用によって陶器の表面に染みなどができることを、「味が付いた」とか「いい景色になった」とか言うのである。それで無理くりこの皿でお茶を点てて飲んだりしていた。使用前と使用後の姿をお見せすることはできないが、この皿に関してはどんどん味が付いていった。
面白いなと思ったのは、味が付くにつれて、皿の見込み(中央の凹んだ部分)がじょじょに深く見えてきたことだった。なんとか平茶碗に見えるようになったのである。〝使えば皿の見込みが深くなる〟というのは、僕にとってはちょっとした発見だった。持ち主の扱い方によって、物はその用途(姿)を変えることがあることに初めて気づいたのである。
もちろんこういった使い方はお遊びである。いわゆる〝見立て〟の一種だと言っていい。ただ平茶碗としてちゃんとしたお支度をしてやれば、お遊びの茶席なら使うことができるだろう。こういった見立て――最初から茶道用に作られたわけではない物を御道具として用いること――が盛んに行われたのは、室町から桃山にかけての千利休時代である。
文学金魚で公開されているが、去年の十月に馬場あき子さんにインタビューさせていただいた。短歌と能楽についてお話しをうかがったのだが、馬場さんのお話は実に刺激的だった。馬場さんはその著書『修羅と艶 能の深層美』(昭和五十年[一九七五年])で、能は「十四世紀後半から十五世紀にかけての〈整理の文学〉であり、大胆な総合への意欲を見せた〈混淆の美学〉である」と書いておられる。千利休は世阿弥より約百五十年ほど後の人で、織豊桃山時代のイメージが強いが、その文化的骨格は室町のものである。利休が大成した茶道にも室町的な「整理の文学」と「混淆の美学」があると思う。
今さらの説明になるが、茶道を初めて体系的にまとめたのは中国唐時代の文人・陸羽である。『茶経』三巻を書いた。十章構成で、茶の起源から製茶方法、使用する茶器、喫茶方法など、いわゆる茶道に関するすべての事柄が簡潔にまとめられている。もちろん陸羽が説いているのは抹茶の点て方である。基本的には日本の茶道と同じである。また陸羽はお茶は「行い精れ倹の徳ある人」にふさわしいと書いている。「倹」は倹約のことであり、これも侘び茶の精神に通じる。陸羽は玄宗皇帝時代の人で、安史の乱で都を逃れ、江南の湖州に隠居して余生を送ったと伝えられる。現実政治を厭う気持ちがあったのかもしれない。
喫茶の風習は遣唐使などを通じて細々と日本にもたらされていたが、日本に本格的に茶を紹介したのは、平安時代末から鎌倉時代初期の禅僧・栄西である。言うまでもなく臨済宗の開祖である。栄西は二度南宋時代の中国に留学している。栄西は当時の最先端の学問を伝えるのと同時に、茶の種子を持ち帰って栽培した。『喫茶養生記』上下巻を書いた。陸羽の『茶経』に倣いながら、一種の薬としての茶の効用を説いているのが特徴である。栄西時代の茶は宗教と密接に結びついており、仏前に供える献茶だった。しかし茶の栽培はまたたく間に盛んになり、鎌倉時代末頃には全国に普及した。
室町時代初期の南北朝時代を描いた史書に『太平記』がある。その中に婆娑羅大名らによる闘茶(飲茶勝負)の記述がある。この頃にはお茶は貴重な薬用ではなく、高級嗜好品になっていた。闘茶はお茶の産地を飲み当てるゲームだが、熾烈で真剣な賭け事でもあった。当時中国から舶載された掛け物や陶器、漆器類は非常に高価だった。婆娑羅大名らはそれら唐物を賭けて闘茶を行ったのである。
今日わたしたちは、平安王朝時代に描かれた『源氏物語絵巻』などの貴重な古代遺産を簡単に美術館で見ることができる。しかしそれは朝廷周辺で製作された例外的美術品だった。室町初期頃までは日本の美術品制作技術はまだまだ低かった。たとえば抹茶碗の国産が盛んになるのは桃山時代末を待たなければならない。経済的にも富裕になった婆娑羅大名らの嗜好を満たすには、唐物美術品を輸入するほかなかったのである。この唐物愛好は室町時代後期の東山文化で一つの頂点に達する。
東山文化を大成したのは室町八代将軍・足利義政である。義政は少し常軌を逸したような茶の湯の愛好者だった。義政施政末期には幕府瓦解の序章と言える応仁の乱が始まるので、陸羽と同じように義政にも現世を厭う気持ちがあったのだろう。それはともかくとして、義政愛好の宝物は『君台観左右帳記』にまとめられた。東山御殿内を装飾していた宝物を、同朋衆(唐物奉行とも呼ばれる)の観阿弥、相阿弥が記録した伝書である。中国文人画の品評、書院飾り、茶道具その他の三部から構成される。義政時代までに日本に舶載された中国・韓国の優れた文物が列挙されている。
この『君台観左右帳記』に記載された文物を、茶道の世界では「東山御物」と呼ぶ。茶道では最高位の「真」とされる御道具類である。この東山御物は足利幕府滅亡とともに散逸し、堺衆を始めとする茶の湯愛好の富裕層が所有するようになった。織田信長や豊臣秀吉が「名物狩り」を行い、民間にある東山御物を強制的に召し上げたのはよく知られている。日本で正統不可侵の権威を持っているのは天皇家だけである。信長や秀吉は、足利室町将軍家正統後継者として天皇家から認知されるためにも、東山御物を所有する必要があったのである。
東山御物は中国・朝鮮からの舶来品であり、国産美術品の生産が思うにまかせなかった時代に、貴人たちがその美意識を〝仮託〟した文物である。それがなぜ茶道で最高の「真」の位置を占める御道具類になったのかと言えば、国産品でない分、かえって日本人の美意識が鮮やかに見て取れるからだと思う。東山御物には馬場さんが語ったような、「十四世紀後半から十五世紀にかけての〈整理の文学〉」の側面がある。輸入品に仮託して表現されて来た日本人の美意識が、東山御物に集約されているのである。もちろんこの集約(頂点)の後には一種の国風文化が開花する。
室町時代末には将軍家東山文化とは別の流れで民間に優れた茶人が現れる。奈良の村田珠光がその一人である。珠光は弟子の古市播磨に与えた伝書『心の文』で、「此道の一大事ハ和漢之さかいをまぎらかす事」だと書いている。珠光は茶道具に唐物だけでなく国産品を使い始めた。また珠光は茶道の理想を「ひゑかるる」こと、「ひえやせ」ることに置いた。そこには禅宗の影響がある。珠光の時代に文人に決定的な影響を与えたのは臨済宗大徳寺の一休宗純だった。珠光はもちろん、世阿弥の娘婿・金春禅竹、連歌師・宗祇高弟の宗長も一休に参禅している。
『君台観左右帳記』をまとめた観阿弥、相阿弥は、「阿弥」号が付いていることからわかるように一遍上人を開祖とする時宗の遊行僧だった。しかし珠光以降、茶道の中心は大徳寺系の禅僧によって担われることになる。それは室町初・中期には平安密教の影響を残す宗教観が残存していたが、後期にはほぼ完全に禅的精神風土に移行したことを示唆している。室町末期には珠光の弟子に武野紹鷗が現れる。紹鷗は裕福な堺衆の一人で、数十種類の東山御物を所有していたと伝えられる。堺衆からは紹鷗に次いで、織豊政権で茶道にまで上り詰める千利休が現れる。
利休と信長、秀吉の関係は面白いのだが、茶道にだけ視点を絞れば彼は侘び茶(草庵の茶)の大成者である。村田珠光から受け継がれた「和漢之さかいをまぎらかす事」あるいは「ひゑかるる」精神が、茶室の設計はもちろん御茶道具に至るまで、目に見える具体的な形で表現されるようになったのである。利休は聚楽第の瓦職人・長次郎に茶碗類を作らせた(楽焼と呼ばれるようになる)。そのほかの国産茶碗も使った。それまで茶席に使用されることのなかった竹花入れや竹籠を使い始めたのも利休が最初である。いわば東山御物の「真」を、「行」、「草」の精神で崩していったのである。
この利休の精神は、高弟・古田織部に引き継がれる。織部設計の茶室は大名らしく書院様式だが、彼が指導した美濃窯では大きく器形が歪み、大胆な絵付けが施された茶道具が数多く作られた。いわゆる織部焼である。ただ侘び茶の全盛期は、織部自刃の慶長二十年で一応の終止符が打たれたと言っていい。利休は秀吉の命で、織部は徳川家康の命で自刃した。その理由は政治的なものであったにせよ、彼らの侘び茶はじょじょに時代趨勢に合わなくなっていたのである。
織部自刃後に江戸初期の茶道界を牽引したのは小堀遠州と金森宗和である。遠州は織部と同じく小大名だが普請(建築造園)に通じており、京で内裏造営や仙洞女院御所造営などを手がけている。公家の雅に通じていたのである。遠州の茶は「キレイサビ(綺麗寂び)」と呼ばれた。侘び茶とは異なり美しく様式化されたものだった。利休の子・宗旦は遠州と同時代人だが、宗旦の茶を「ムサシ(むさくるしい)」と呼んだ当時の狂歌が残っている。千家の侘び茶は宗旦を中興の祖としてじょじょに復興してゆくが、江戸初期においては遠州のキレイサビが一世を風靡していたことがわかる。
金森宗和は大名の子として生まれたが廃嫡され、大徳寺で禅を学んで出家した。京が活動拠点で、後水尾天皇を始めとする公家社会と交流が深かった。宗和もまた公家文化に通じておりその茶はキレイサビだった。宗和は茶道具に野々村仁清の御室焼を愛用したことで知られる。遠州もまた御室焼の愛好者だった。御室焼は宗和や遠州を通して全国の数寄者の間に普及していったのである。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(後半に続く)
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