長岡しおりさんの文芸誌時評『No.008 Papyrus(2015年10月号 Vol.62)』をアップしましたぁ。10月号は三浦春馬さんが表紙です。テレビではちょっと線の細い感じですが、雑誌表紙で見るといい男だなぁ(爆)。パピルスさんは毎号芸能人の方が表紙なんですが、とっても特徴のある写真でレイアウトです。確かオリンピックエンブレム問題で、日本中に名前が知れ渡ってしまった佐野研二郎さんがアートディレクターだったと思います。センスいいなぁ。
長岡さんは三浦春馬さんのインタビューについて、『このインタビューのタイトルは「その壁の先には、自分の知らない世界がひろがっている」という。・・・文芸誌が扱うその手つきと言っては何だが、それが別のものをも荷わせているように見える。・・・すなわち・・・文学的な雰囲気を衣装として纏ったグラビアのようだ、とも。それは決して三浦春馬さんの言説を適当に編集しているとか・・・いうことではない。むしろ逆なのだが、その言説は常に “ 文学的 ” イメージを介して捉えられている気がする。そこにむしろ現在の文芸誌の抱える欠落が見えるように思える』と批評しておられます。
芸能人を表紙にするのはもちろん雑誌の売り上げを伸ばすためですが、長岡さんが言うように文学者よりも時代の雰囲気を捉えている表現者だからかもしれないなぁ。また芸能人は昔から変わりませんが、文学者の方が芸能人化している面もあります。でも作品より生身の文学者の方が面白かったら困りますよね。芸能人の重要なランキングに好感度調査がありますが、彼らは裏表があってはいけない。基本いい人でなければならない。そのデンで言うと、文学者がテレビなどに登場するときは破れかぶれな内面が見えないと面白くない。野坂昭如さんはテレビ画面からも〝無頼〟が伝わってきましたが、その方が文学者は面白い。
芸能人と文学者の違いは、時代の雰囲気を生身の肉体で体現する表現者と、内面で表現する創作者といふことでせうか。時代を掴みきれない現代では、なんとなくであれその雰囲気を体現している芸能人の方が光って見えるのは当然でせうね。文学者が無頼であるためには、内面に自信がなければならなひといふことでもありまふ。確かにそういったお方、少なくなりました。かつての文学者のイメージをなぞる〝文学的文学者〟が多いですねぇ(爆)。
■ 長岡しおり 文芸誌時評『No.008 Papyrus(2015年10月号 Vol.62)』 ■