谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.013 文藝 2015年秋季号』をアップしましたぁ。「文藝」さんの表紙、なんか大昔に見たことあるやうなレイアウトになってるなぁ。ちっとオリンピックのエンブレム問題を思い出してしまひました。パクリとかそういふのぢゃなくて、文芸誌の場合、古き良き時代のノスタルジーなのかな(爆)。でも目次巻頭が柳瀬尚紀さん訳のジョイスの『ユリシーズ』とはこれいかに、といふ感じでありまふ。河出書房新社から『ユリシーズ』全3巻が刊行されているわけですが、今一番確実に売れる本が柳瀬訳『ユリシーズ』といふことなんでせうね。
谷輪さんは、『新しい外部がないからこその「ユリシーズ」ではないか、ともいえる。ただ外部を取り込む姿勢を振り返り、緩いファイティングポーズをとっているとも。その姿勢を精緻に調べ上げ、洗練させていく必要がある・・・とはいえそれは、創作者というものが創作を通して知性と感性の極北に立つ、という前提があってのことだ。極北に立つ、とは・・・追い詰められる、ということだろう。追い詰められるだけの感性を持っていることが前提である。危機を単なる出版不況として捉え、自著の刊行を重ねられればクリアと思っていられるような脳天気な書き手は本当のところ、いてもいなくても一緒だ』と批評しておられます。
創作者は未知の表現領域を開拓するパイオニアであり、同時代思想や感性を的確に表現する時代の代弁者でもあります。一方で自分のことしか考えない、鼻持ちならぬミーイストだという側面も否定できません。前者のような、文学で社会に貢献できる文学者の役割が薄れれば、好きなことしかしようとしない文学者のイヤな面が露わになるのは当然のことです。
石川は文学には〝学問〟という側面がもっとあっていいと思います。文学者と研究者を兼ねよと言っているわけではないですが、現代のように先が見えない時代に、とにかく創作を優先させて、自分の作品をメディアに載せてもらうことにあくせくしていたのでは埒があかないと思います。研究者よりも鋭い直観で文学について考え詰める文学者がいて、初めて創作や研究の世界が活性化するのではなひかと思います。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評『No.013 文藝 2015年秋季号』 ■