(小原さんとスカイプで話してたら、小説宝石の話が出て、面白そうだったから、会議用のICレコーダーをオンにして、後から石川がテープ起こししました。)
夢枕獏さんが「獅子の門 鬼神編」を連載されてますよね。格闘技小説で、エンタテインメントで、その第11回ということで、ごく一部の断片なんですが、すごく興味深く読みました。
こちらの ( 文学金魚の ) 次回インタビューが夢枕さんなんで。その質問リストを作るお手伝いしているので、読ませていただきました。『大江戸釣客伝』が三冠で、最新刊が『呼ぶ山』で、他に山岳小説としては『神々の山嶺』があって、これらはとても面白いんだけど、純文学作家が書いたって言っても変じゃない。あれ、今まで何か取り違えてたのかな、エロスとバイオレンスと陰陽師じゃなかったっけ、って思いました。
芸風の広い、広いったって広すぎる作家ってことかなって。でもやっぱり腑に落ちなくて、小説宝石の、この格闘技エンタテインメントの断片を読んで、あ、やっぱ同じだ、同じ人が書いてるんだって納得しました。当たり前なんですけど。
小説宝石の「獅子の門 鬼神編」第11回ってのは、岩神と鳴海という2人の格闘家のマッチの模様を一挙手一投足、描いてる場面なんですけどね。退屈しないわけです。格闘技に詳しい人がどういうところを観てるか、何を面白がってるかがわかる気がする。これは『神々の山嶺』で、氷壁を登攀する一挙手一投足を覚えている、それによって再挑戦の戦略を練るっていうのと同じ。
将棋指しが全部の手を暗記してるのに似てるんですね。そういえば、エベレスト南西壁冬期無酸素単独行を敢行する男の名前、羽生っていうんですけどね。(笑)
小説宝石では一箇所、岩神って名前が「岩上」ってなってる誤植があって、それで気づいたけど、常人離れして強い存在なわけ、岩神は。神だから。それで獏さんの小説はしばしば、それに及ばない常人の視点から描かれている。読者の共感を得るための基本的な小説作法だといえばそれまでだけど、格闘技の描写を読んでるうち、構造的なものもあるんだ、とはっきりしました。
つまり鳴海という自称「凡人」の肉体を通して、上も下も見通せるわけですよね。凡人ったって、相当な肉体なんで。その肉体を中心として、小説構造というより大きな「肉体」をコントロールしてゆく。
で、筋肉の動きのひとつひとつ、右肩の持ち上げ方ひとつ、腰の捻りひとつに、いちいち意味がある。それはある種の言語なんで、その肉体言語が日本語に翻訳されている感じ。
だから改行が多くて「詩」みたいになってるのは、枚数換算の原稿料稼ぎとかじゃなくて (笑)、それが肉体の言語だからだと思う。余白とか沈黙とかを内包していて、もちろん小説だから日常言語の地平にはあるんだけど。
毎年、詩の授業に体育会系の子たちが来ていて、魂じゃない単位の救済を求めてね。で、その授業では、詩の言語は肉体の言語と相性がいいんだって、よく言うんだけど。村野四郎の体操詩篇とかあるし。獏さんの言語も肉体言語に近づこうとしていて、つまり詩的でもあるってことかもしれない。
小原眞紀子 (談)
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