大野ロベルトさんの新連載エセー 『オルフェの鏡-翻訳と反訳のあいだ』『第一回 翻訳される旅人』をアップしましたぁ。翻訳を巡るエセーです。第二次世界大戦中には敵国である欧米文学を読むことを禁じられたので、戦後になってもんのすごい勢いで訳書が出版されました。昭和五十年代くらひまでに、欧米の主立った名作はほぼ訳し尽くされたと言っていいでしょうね。また日本人は、戦前には中途半端に終わった欧米文学(文化)の受容を本格的に深めるために、大量の訳書を必要としていたのでした。最近は、かつてに比べると訳書が少なくなっています。世界が均一化して、外国文化に対する驚きが薄れてきたせひでもあるでしょうね。こういった現代的状況で翻訳について新たな視線を向けるのは、大事な意味のあることだと不肖・石川は思います。
翻訳された海外文学が日本文学と峻別されるとき、両者を隔てる障壁となっているのは何だと言うのだろう? 旋律の作り方、撮影の仕方、言葉の紡ぎ方、声、容姿、色、香り、世界へのまなざし……そういったものは、すでに西洋のそれらと交換可能になっているはずではないのだろうか。それでもなお往還を阻止する何物かがあるとすれば、それはやはり私たちが安心して寄り添うはずの故郷、すなわち言語ということになるのだろうか。それはつまり世界をつなぎとめるものとしての言語、世界そのものとしての言語が、常に矛盾を孕み、裏返ってしまうがゆえの隔絶なのだろうか?
第一回連載の最後の方に現れる大野さんの言葉は、様々な問題点を含んでいるでせうね。日本人はもちろん東洋の多くの国々が、20世紀の初頭まで東洋文化と呼ばれる文化圏に所属していました。今でもそうなのですが、現在では世界標準である欧米式の論理的思考と用語定義に従って考えなければ、東洋思想すら表現できないようになっています。わたしたちは、いわば世界標準である思考体系に所属しているわけです。
しかし大野さんが指摘しておられるように、言葉と思考・感性は「交換可能」であり、かつ「往還を阻止する何物かがある」。そのような状態を生じさせているのは、「私たちが安心して寄り添うはずの故郷、すなわち言語」だと大野さんは書いておられます。その探求はかなり難しいでせうが、石川はそれを知りたいと思います。大野さんの連載に期待ですっ!。
■ 大野ロベルト 新連載エセー 『オルフェの鏡-翻訳と反訳のあいだ』『第一回 翻訳される旅人』 ■