大野ロベルトさんの荒木経惟論『陽画としての「死」』をアップしましたぁ。2日続けて大野さんのコンテンツをアップします。ご存じない方もいらっしゃると思いますので説明しておきますと、大野さんは小説や詩などの創作を発表される時は〝露井(ろせい)〟というペンネームを、評論などを発表される際は〝ロベルト〟の本名を使っておられます。荒木さんの写真集『センチメンタルな旅・冬の旅』を取り上げて、氏の重要なテーマである死について論じておられます。
大野さんは「「死」へのまなざしがこれほど生々しく表現のなかに定着することに、私たちは不慣れであるかもしれない。しかし前例はいくらもある」とした上で、伝デ・グランジェ筆の「サルトンストール家の肖像」という絵画や、イギリスなどで撮影された死者との記念写真を紹介しておられます。特にイギリスでは写真が普及すると――と言ってもまだまだ貴重でしたから、これといった際にしか撮影は行われなかったわけですが、死者との思い出を写真に残すことがブームになっていたようです。大野さんは「このような撮影が流行したことが示すのは、単に「記録」にとどまらない「記憶」という写真の根源的な機能が人々に共有され、大きな意味を持つようになった、ということである」と論じておられます。
世界中で死は不浄で忌むべきものとみなされましたが、その一方で小さな家族単位で死者はとても大事にされてきました。写真が普及してからということになりますから、明治後期以降でしょうが、昔ながらの日本の家にはご先祖様の写真がたくさん飾ってありました。他人が見れば少し気味の悪いところもあるのですが、家族にとってはもちろん懐かしく、愛おしいイマージュであったわけです。
この極めてプライベートな死の写真を、プライベートなまま写真家として初めて真正面から発表したのが荒木さんだったわけです。荒木さんは〝私小説〟〝私写真〟という言葉を好んで使いますが、その写真発表の方法は、確かに私小説や抒情詩と同じでしょうね。近親者の死などは他人にとって所詮人ごとです。それを誰にとっても痛切な表現とするためにはテーマの相対化が必要です。万人に共有できるものにしなければならないわけです。荒木さんの場合、それは〝私を突き詰める〟ことで表現されているやうに思います。