小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティ 現代に読む源氏物語』(第035回)をアップしましたぁ。今回は『源氏物語』第四十七帖『総角(あげまき)』の読解です。『宇治十帖』第三帖に当たります。大姫と薫は互いに惹かれながら、大姫は若い妹の中姫を薫の妻にした方がよいと考え、実際に勧めます。しかし薫は決断できません。そうこうしているうちに匂宮が中姫と通じてしまう。でも貴人中の貴人であり、また元々気の多い御方であったりもして、匂宮はなかなか中姫の元を訪れません。また中姫のことが噂になり、前々からあった匂宮の正式な妻を迎える話が決まってしまう。大姫は嘆いて生きる気力を失い、亡くなってしまふのでした。
この巻について小原さんは、「大姫の死が私たちの涙を誘うのは、相愛の男女が結ばれなかったからではありません。大姫は、薫との結びつきが幻滅に終わることなく、永遠なれと願っていた。それがある意味で成就したことが感動を呼ぶ、ということではないか。永遠の関係であろうとするがゆえに肉体的に結ばれることを拒み続けるという、それは普通の人々には理解しがたいことであり、女房たちは非難していました。しかし当の薫は、わかる気がする、と思ってしまうのですから、口説き手としてはそもそも難しい。つまりは肉体的に結ばれるまでもなく、二人はすでに通じ合っていたのです。それは薫が私淑していた大姫の父・八の宮の思想を通して、であるに違いありません」と書いておられます。その通りでせうなぁ。
また同じような小説構造が、現代作家の江國香織さんの作品『ウエハースの椅子』や『落下する夕方』にあると指摘しておられます。「世界と対峙しようとするとき、恋愛はひとつの方便に過ぎません。あらゆる制度とも社会的なコードとも無縁に、ただ永遠で絶対的な観念で世界を捉えようとするなら、〈子供〉の自分が世界と対峙した、そのときと同じ光景が喚起されるのは必然です。江國香織が児童文学からデビューし、魅力的な童話をも書き続けていることも必然であるように思えます。そのことが社会的な文学の制度においては、いわゆる「女子供の文学」としてさらに判別評価を難しくしているのだとしても、この系譜は本当のところは文学の純粋な観念をめぐっている」と書いておられます。これもその通りでせうね。
不肖・石川も、前々から江國さんは純文学作家だと思っています。まあご当人は気にもされていないでせうが、芥川賞、直木賞作家というレッテル貼りは、文学の世界の見識や社会性が試されるコードではあるでせうね。
■ 小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第035回) ■