池田浩さんの文芸誌時評『No.011 小説新潮2015年3月号』をアップしましたぁ。特集「空き室あります」を取り上げておられます。池田さんは「一昔前ならば、「空き部屋あります」の張り紙から始まる物語とは、大家と店子の、あるいは下宿人同士の関わり合いから生まれるものだった。今は物語は各壁に隔てられ、その室内で完結する」と書いておられますが、その通りだなぁ。フィクショナルなほのぼの大衆小説でない限り、現代では落語のやうな大家と店子の関係は生まれにくい。部屋は密室でありその中で何かが完結しています。
大家-店子の関係は人間関係であり、社会に密接につながっています。しかし密室空間はそうではない。内部では突拍子もないことが起こっているかもしれない。それを池田さんは「コンパートメントの中の物語には、たいてい事件が必要である。・・・人間のあり様は、その事件によって照らし返されるのであり・・・個々のコンパートメントは、起きる事件の分類に使われているようでもあるのだ」と批評しておられます。事件が起こるまで何が起こっているのかわからないのですね。そして事件が衝撃的あればあるほど、その主役である人間はコンパートメント同様に、特異な密室的心性を持つ人となってしまう可能性があります。
池田さんの批評は私小説を考える上でも重要だなぁ。私小説は大正時代くらいに成立した日本独自の小説形態ですが、現代と比較すれば社会の中での自我意識の肥大化として捉えることができます。その意味で私小説が描く自我意識には、人間存在に通底する普遍性がありました。しかし個々に隔てられたコンパートメント形式の現代では、社会をほぼ完全に失うことができる。でもわたしたちは、ある普遍性を指標にして芸術を含む社会的活動を行っていくほかありません。恐らく普遍という概念を再定義する必要があるんでしょうねぇ。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.011 小説新潮2015年3月号』 ■