岡野隆さんの詩誌時評『No.018 月刊俳句界 2014年08月号』をアップしましたぁ。「特集 命の重み 〝絶句〟を読む」と「自句自選のむずかしさ」の二つの特集を取り上げておられます。絶句は俳人が生涯最後に詠んだ句のことですが、岡野さんは「実も蓋もないことを言えば、秀作・傑作を書こうと思って書けるのなら元気のあるうちにとっくに書いているはずである」と書いておられます(爆)。しかし絶句の意味を否定しているわけではありません。
岡野さんは「文学者など見たこともない時期にある作家の辞世を目にすると、それは深淵な真理のようなものを表現しているように読める。しかし優れた作家に身近に接し・・・たりすると、もうそういった幸福な読解はできなくなる。死は終わりというより中断なのだということがはっきりわかる。・・・作家を身近に知っていれば辞世にある感慨を抱くだろうが、それはあくまで個人的な感情である。文学の問題としては、なんの変哲もない辞世にまで、筋の通った作家の個性や主題が通底していることに改めて驚かされるのである」と論じておられます。また岡野さんは、絶句と自句自選には共通点があると批評しておられます。
岡野さんは「俳句の自句自選が難しいのは、作品の言語表現が俳句文学の本質(無意識的本質)に届いたとしても、それが作家に分かるとは限らないところにあるからだと思う。わたしたちはそのような俳句文学の本質的無意識を、簡単に俳句形式と呼んでいるだけのことである。五七五に季語の形式を逸脱しようと俳句作品は秀作・傑作になり得る。ふとしたはずみである作品が作家の代表作になった例は枚挙にいとまがない。またそれは、俳人の絶句がわたしたちに訴えかけてくる何かと通底しているだろう」と書いておられます。
俳句雑誌にはとにかく初心者向けの実践的俳句技術論が並んでいるわけですが、岡野さんのような大局的抽象論も必要だと思います。あ、自由詩の詩誌を開くと、まったく技術を無視した抽象論、と言ふよりわけのわからないジャーゴンだらけの観念論が並んでいるわけで、こりはこりで問題です。だって抽象論のみだとまったく議論の基盤がないんですもの。技術論と抽象論は要はバランスの問題で、どちゃらも必要なものだと思いますぅ。
■ 岡野隆 詩誌時評 『No.018 月刊俳句界 2014年08月号』 ■