池田浩さんの文芸誌時評『No.009 三田文学 2015年冬季号』をアップしましたぁ。池田さんは「連載は、文学史もしくは歴史的なものにかためられているが、執筆者に三田文学の編集OBを当然のごとく配するには、何となく収まりがよいのである。三田文学にとって歴史とは、三田文学の歴史なのである、と開き直る権利はあると言われればその通りだ。皆、めったにやらないだけで」と書いておられます。三田文学さんのアイデンティティですなぁ。
三田文学は言うまでもなく慶應大学が出版している大学雑誌です。独立採算云々といった立て前は別として、早稲田文学や江古田文学などと変わりません。当然、執筆陣は慶應出身者が多くを占めます。新人賞についても然りです。基本、塾生とOBが優先されます。もちろん執筆陣・新人賞に塾生・OB以外の作家が入ってくることもありますが、特に新人賞については塾生・OBでなければ厳しいかもしれません。三田文学は基本、文学を志す塾生・OBのために存在する雑誌なのでありまふ。
池田さんはまた「同人雑誌評。これがあることでわかることは、三田文学は同人誌ではない、ということだ」とも書いておられます。三田文学さんは文学界さんから同人誌評を引き継いだのですが、これは意外に大きな意味があったのかもしれません。以前から三田文学さんは大学雑誌と商業文芸誌の中間といふ感じでしたが、同人誌評を引き継ぎ、その中の優秀作を文学界に定期的に掲載することで文壇の一部に組み込まれたのかもしれないですね。
不肖・石川は文壇裏話をしているわけではなく、要はどのメディアにもアイデンティティがあるといふことを書いているわけです。夢いっぱいのまま作家や詩人になることを目指すのもいいですが、世の中の組織は当事者でも動かしがたい制度で縛られているものです。そんなことをしてもムダという試みや努力はたくさんあります。文壇の仕組みは一般企業のそれと基本的には変わりません。理不尽なことは山ほどあり、首をかしげるような人が出世したとしても、仕事ができる・できない以外の出世のための要素を持っているのが常です。
ただ池田さんは、「何もかもが虚しい、などと言っているわけではない。紙の束の充実感、それこそが文学の未来を支える可能性がある。あるいは、いったんはそこまで引き戻さなくては、もはやどうしようもないかもしれないのだ」とも書いておられます。そうかもしれません。少なくとも今までの制度とは明らかに異なる、現代的原理で動く文芸誌がそろそろ出現しても良い頃だと思います。
■ 池田浩 文芸誌時評 『No.009 三田文学 2015年冬季号』 ■