水野翼さんの文芸誌時評『No.011 群像 2014年12月号』をアップしましたぁ。水野さんは、「「純文学とは何か」を単なるおざなりの特集タイトルに掲げるのでなく、その問いに最も根本的に答えようとしてるのは、身びいきは抜きで、文学金魚だろう。自我のあり方とか、歴史的背景とか、日本文化の構造とか、それは日本と日本語の問題にも遡及するはずで、つまりは詩も含めて総合的に評価できるメディアでなくては、とても捉えきれまい」と書いておられます。嬉しいなぁ(爆)。後発メディアの倫理として、文学金魚が既存メディアとは異なる文学への問いかけをベースにしているのは確かなことであります。
水野さんは「純文学系小説誌は長年に渡り、純文学らしさを身にまとってきたプロである」とも書いておられます。問題は純文学、つまり文学の中の最も純なるもの、文学の核心とは何かといふことであります。文学金魚にも既存の純文学系小説誌にも、様々なタイプの作品が掲載されます。私小説系からサスペンス、ラノベ系の作品まで掲載されたりするわけです。ただそれが純文学であることを保証するのは、当たり前ですが器(メディア)ではありません。現在の純文学の衰退は、作品が純文学を主張するのではなく、純文学系メディアに作品掲載されるから純文学なのだという、文学制度ばかりが目立ってしまうことにあります。
当たり前ですが、どんなメディアの背後にも人・編集者がいます。それがメディアの編集方針を形作っています。編集方針が目立ってしまうのはあまり良いことではありませんが、かといって存在しなければ各メディアの特性は失われる。編集部はある程度、明確な編集方針を持っていなければならないわけです。
しかしかつては漠然とであれ存在したメディアの編集方針は見失われています。もそっと穏当な言い方をすれば、大きな変化を目の前にして、とりあえず過去の編集方針を踏襲する様子見になっています。水野さんが「小説しか扱わないという構造では純文学の発生の本質を捉えられないのだから、もっぱら自我のあり様としての文学的なアトモスフィア、やたらな真摯さの姿勢をもって「純文学らしさ」とするしかなく、それはたやすく文壇的な立ち位置に置き換えられる」と書いておられる通りです。文壇だけでなく詩壇でも同じでしょうね。
文学金魚は基本的に「核のない生成はあり得ない」と考えています。この考えは現代のポスト・モダニズム思想と対立しません。中心のない世界(根底不在の世界)は、それでもある秩序を保っています。文学金魚はこの秩序をある核(心)と捉えているわけです。小説、詩といったジャンル、あるいは文壇・詩壇といった現実制度にこだわっていたのでは、それを把握できないでしょうね。文学金魚の総合文学というスタンスは、21世紀的な文学パラダイムを理論と作品として提示してゆくためにあります。
■ 水野翼 文芸誌時評『No.011 群像 2014年12月号』 ■