目次その他をつらつら眺めて、今さらながら純文学とは何だろう、と思った。それはあまり正確な問いではなくて、純文学の文芸誌をそれらしくみせる純文学的なるものとは何だろうか、と考えたというのが本当だ。その二つの問いはたぶん、まったく違うものだ。
「純文学とは何か」を単なるおざなりの特集タイトルに掲げるのでなく、その問いに最も根本的に答えようとしてるのは、身びいきは抜きで、文学金魚だろう。自我のあり方とか、歴史的背景とか、日本文化の構造とか、それは日本と日本語の問題にも遡及するはずで、つまりは詩も含めて総合的に評価できるメディアでなくては、とても捉えきれまい。ただ純文学系小説誌は長年に渡り、純文学らしさを身にまとってきたプロであることは確かだ。
それはインチキなわけでは必ずしもなくて、ただ「文壇らしさ」というものを「純文学らしさ」にすり替えている面はあるように思う。小説しか扱わないという構造では純文学の発生の本質を捉えられないのだから、もっぱら自我のあり様としての文学的なアトモスフィア、やたらな真摯さの姿勢をもって「純文学らしさ」とするしかなく、それはたやすく文壇的な立ち位置に置き換えられるからだ。
それはなぜか。つまりアトモスフィアや真摯な姿勢は、この現世における身近な他者の目に入って初めて認められるからだ。それを評価するのは、文壇という村の隣人たちしかいない。すなわち文壇に認められた一人前の「文壇らしさ」という文壇社会的な信頼性が、純文学らしさに置き換わる所以だ。
それで今号の目次を眺めつつ、具体的に「純文学らしさ」を加えるものは何なのだろう、と考えた次第だ。エンタメ風の設定も、SF的な設定も、児童文学っぽいものも、何もかも含み得る純文学系小説誌なのだが、それを一様にビンボ臭くしてしまうものは何だろうか。
ビンボ臭いというと語弊があるが、たとえば多くの若い読者が感じるのは、ぶっちゃけそーゆー感じだろう。もちろんラノベしか眼中にない読み手(もしくは書き手)のレベルにおもねる必要などない。ただ、すべてを醤油味で煮込んだ弁当のようであることは確かだ。
醤油味そのものが嫌いな読者はいない。しかし、ひと垂らしは何にでも醤油を入れなければならんという弁当が一流シェフのものでないことは確かだ。それさえ入れときゃ間違いない、という意識では、何でも甘ったるくする田舎の仕出しと変わらない。純文学系小説誌は知の中心から外れ、いまやローカルなものになっている。
で、それともし接近しようとした場合、ようは何か書いておいて、最後(か最初)にひと垂らしの醤油を差す、というのがノウハウらしく見える。この醤油というのは「死」の香りということらしい。凄味のある純文学は生を徹底して死が覗くわけだが、ローカルのコンビニ店のような純文学は「死」という調味料をまぶして出来上がる。コンビニはどこにでもあるから、ときに中央にいるふりもするが、コンビニは所詮コンビニ味なのだ。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■