高島秋穂さんの詩誌時評『No.005 角川短歌 2014年08月号』をアップしましたぁ。今月号の「短歌」には昭和53年(1978年)7月号に掲載された哲学者の鶴見俊輔と市井三郎、歌人の玉城徹と岡野弘彦による「座談会 戦後をみつめて」(前編)が再録されています。高嶋さんはまずこの討議を取り上げておられます。
討議は鶴見氏の発言をベースに進んでいきます。高嶋さんは、「鶴見俊輔氏は、近代以前の日本社会では、短歌や俳句は庶民の生活とともにあったと考えています・・・生活の一部だったということです。・・・社会情勢の変化により欧米的基準の芸術となり、太平洋戦争中には政治的に利用されました。しかし長い歴史の中ではその方が例外なのであり、詠み捨てられ忘れられてゆく原(ウル)短歌の方が、庶民生活に調和をもたらす要素として遙かに重要だと論じています」とまとめておられます。
しかし当たり前ですが状況は刻々と変わってゆく。高嶋さんは「短歌・俳句は人々の生活に根づいていた(という)パラダイム(共通認識基盤)は消失してしまいました。・・・短歌界は再び限られた集団の芸事、芸術になり始めています」と前置きした上で、今月号掲載の「連載 馬場あき子自伝 聞き手・穂村弘」を40年前の討議と対比しておられます。
馬場氏は「短歌や俳句を生んだ日本文化の「型」そのものが失われつつある・・・それは、意識して理解・習得しなければもはや身につかないものとお考えになっている」のですが、それにどう対応するのかを、型を重視しない口語短歌の旗手・穂村氏にぶつけているわけです。「馬場氏は口語短歌を否定するのではなく、型のない短歌がどこへ向かっているのかに、柔軟で強い興味を持っておられるようです」と高嶋さんは書いておられます。高嶋さんの批評は、雑誌ならではのジャーナリズムが生み出す良質の思考でせうね。じっくりお楽しみください。
■ 高島秋穂 詩誌時評 『No.005 角川短歌 2014年08月号』 ■