岡野隆さんの詩誌時評『No.017 月刊俳句界 2014年07月号』をアップしましたぁ。「月刊俳句界」では「魅惑の俳人」というコンテンツが連載されていますが、今月号で取り上げられた荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)について岡野さんは書いておられます。井泉水は河東碧梧桐の弟子(新傾向俳句の共鳴者の一人と言った方が正確かもしれません)筋ですが、「層雲」を主宰し、そこから種田山頭火、尾崎放哉といった自由律俳人が出ました。
岡野さんは井泉水文学について、「井泉水の俳句の特徴は・・・東洋的調和世界を表現することである。・・・そこでは完結した調和世界が表現されている。・・・ただ井泉水は五七五の俳句形式や季語を明快に否定し・・・俳句にとって不要のものだと考えた。そこに井泉水独自と言っても良い〝俳句有本質論〟的姿勢がある。俳句には表現すべき本質的イデアがアプリオリに存在するという考え方である」とまとめておられます。
またこの思考を敷衍して、「東洋思想は密教系の思想であれ禅系の思想であれ、調和を至高としながらその背後に〝無=虚無〟を抱えているのが常である。・・・山頭火や放哉の自由律俳句は明らかに無本質、虚無である。・・・簡単に言えば自由律俳句は、俳句には形式を超えた本質があるという思想と、何もない無であるという思想に支えられている。またこの思想を東洋思想として捉えればそれは表裏一体である」と批評しておられます。
様々な異論はあるでしょうが、不肖・石川は鮮やかな読解だと思います。俳句や短歌では批評は99パーセント評釈です。作品の意味内容を詳細に読解し、そこに批評者の夢(自分が俳句や短歌で表現したい形式や意味内容への熱い思い)をうっすらと付け加えるのが常です。それはそれでけっこうなのですが、評釈はインサイダー(プロパーの歌人・俳人と創作者予備軍)のためだということを考える必要があるでしょうね。短歌・俳句批評を一般文学批評と同質のものとするためには、岡野さんのように俳句文学を相対化して捉えることも時には必要ではないかと思いますぅ。
■ 岡野隆 詩誌時評 『No.017 月刊俳句界 2014年07月号』 ■